はっぴいえんどと心霊写真とお花見

2004-04-02 vendredi

予約していたはっぴいえんどのボックス(ディスク8枚入り)が Amazon から届いた。分厚いデータブック付き。
さっそく「ゆでめん」から聴いてみる。
「ゆでめん」はアナログ盤を持っているのだが、レコードプレイヤーというものを久しく所有していないので、聴くことができなかったのである。
いつ聴いても、「12月の雨の日」と「春よ来い」はよい曲である。
今回はライブ音源の他、はっぴいえんどがバックバンドとして参加している曲もディスク8に収録してある。
はじめて知ったのは、高田渡の名曲「自転車に乗って」のバックをはっぴいえんどがやっていたことだった(あの「ほい」という気楽なかけ声は大瀧詠一の声だったのである)。
いろいろなアーティストの「好きな曲」というのを拾い上げてゆくと、それが同じスタジオの録音であったり、同じスタジオミュージシャンの演奏であったりするということはよくある。私たちは「曲」を聴いていたのではなく、「サウンド」を聴いていたのである。
そう考えてみると、1970年からあと、私が日本人ミュージシャンの楽曲として(それと知らずに)一貫して愛聴してきたのは、「はっぴいえんどの音」(それは「ナイアガラ・サウンド」であり、初期の「ゆーみん」のサウンド、山下達郎や大貫妙子のサウンドでもある)だったということが改めて分かった。
それとはまったく無関係なところで、バッファロー・スプリングフィールドのサウンドも大好きで(ビートルズの解散後は、CSN&Yとニール・ヤングばかり聴いていた)。これも、ちゃんと平仄が合っている(はっぴいえんどはバッファロー・スプリングフィールドの Bluebird を練習してそのサウンドを完成させたのである)。
残念ながら、私はリアルタイムでははっぴいえんどを聴いたことがない(私が名前を知ったときにはもう解散したあとだった)。
岡林信康のカセットテープを兄ちゃんがもっていて、そのクレジットに「はっぴいえんど」というバンド名があったのを見たのが最初である。
76年、スキー旅行の夜、麻雀をしていた中のひとりが「楽しい夜更かし」をカセットに入れて「麻雀のテーマソング」にしていた。東京に帰ってすぐにレコードを買い、ラジオ関東の Go! Go! Niagara を毎週聴くようになった。
77年に渋谷で会社を始めたときに仲間の石川茂樹くんに「大瀧詠一って知ってる?」と訊いたら「私の師匠です」という答えが返ってきて、それから石川くんといっしょにコンサートに行くようになった。
山下達郎くんとの正月名物『新春放談』をはじめとするラジオ放送は石川くんがこまめにエアチェックして、いまでも定期的にカセットを送ってくれる(石川くんは Go! Go! Niagara を三年間全回分をテープに録音しているという伝説的なナイアガラーなのである)。
そのカセットを車に乗っているときには繰り返し聴いている。何十回聴いても聴き飽きるということがない。
『新春放談』20年分を全部収録したCDをどこか出してくれないだろうか。1980年代以降の日本社会とその文化について、これほど透徹した分析を語り続けた批評的知性を私は大瀧の他に知らない。
「風街ろまん」を聴きながら、『ミーツ』の原稿をさくさくと書く。
今回は「離婚について」。
またまた長くなりすぎて、「続きは来月」(これも『新春放談』ぽい)。

合気道のお稽古にゆくとU野先生が合宿のときの集合写真に「変なもの」が写り込んでいるのを見せてくれる。
たしかに私たちのまわりにふわふわと白い球状のものが浮いている。
ただし、それはドクター佐藤が写した分だけで、同じアングルで谷口さんが写したものには何も写っていない。
さすが「霊感政務次官」。

お稽古のあとベリーニの久保さんにお招きして頂いていたので、芦屋川河畔の「お花見宴会」に行く。
ベリーニは美味しいとこの日記で何度も書いたので、その「お礼」である。
芦屋のなんだかゴージャスなおじさまおばさまたちに立ち混じって「味噌おでん」や「バラ寿司」や「サザエの壺焼き」などを食べて、ビール、ワイン、日本酒などを飲む。
桜はみごとに満開であるが、例年のようなライトアップがない。
どうやら経費節減のために、やめたようである。
芦屋市は去年市長が代わってから、なんだかすごくけちくさくなった。市立の美術館を閉館するとか、ゴミの収集を一日減らすとか、ライトアップをやめるとか、せこい施策ばかりがめにつく。
そんなことをするとますます住民が減るばかりだと思うのだが。
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