哀しみの条件法

2004-03-19 vendredi

『困難な自由』残り、あと25頁。
「先が三重県伊勢神宮」の近くの「赤福本店」くらいまでたどりついた。
しかし25頁というのは一日に一気にという量ではない。まず三日。
なにしろレヴィナス先生の文章はかつてコリン・デイヴィスをして「邪悪なまでに難解」といわしめたほど、ぐちゃぐちゃずるずると関係代名詞と否定疑問文で結びつけられており。さらに全体の三分の一は条件法で書かれている。
フランス語をご存じないかたには伝えにくいのであるが、「条件法」というのは英文法でいうところの「仮定法」のことである。簡単に言うと「ありえない仮定をした場合に、その結果生じるはずの、ありえない帰結」を述べるための法である。
例えば

Qui peut y repondre?(これは直説法)
Qui pourrait y repondre?(こちらが条件法)

はどちらも「誰がそれに答えることができるだろう?」という訳文になるのであるが、直説法は「誰かできるひといませんか?」という意味であるのに対して、条件法の方は「誰もできるやつなんかいるわきゃねえよ、けっ」という意味なのである。
つまり粛々と事実を述べているような口ぶりでありながら、レヴィナス老師のテクストの場合はテクストの三分の一は「んなことあるわけないんですけどね」というふうに、絶えず自分の言明そのものに「抹消記号」をつけながら進むのである。
想像できます?
そこに書かれていることの三分の一がご本人の意見でも客観的記述でもなく、書いている当人が「そんなことあるわけないでしょ」と書いては消しゴムで消すような文章で構成されているテクスト。
こんなものをすらすらすいすいと訳せるわけがないです。
だから、レヴィナスの訳文というのは、同一のテクストについても訳者が変わるともうまるで別の文章になってしまう。
それはレヴィナスが条件法を使って、「これはありえないことですよ」というふうに目配せしている「ありえないこと」が、「あってはならない」から「ありえない」のか、「あらねばならないのだが不可能」だから「ありえない」のか、「単なる思弁」だから「ありえない」のか、「前提が間違っている」から「ありえない」のか・・・そのへんのニュアンスは訳者が自分で「感じる」しかないからである。
レヴィナスはだいじなことはほとんど「抹消記号付きのことば」でしか語らない。
そして、私たちが訳に苦しむのは、「抹消記号付きのことば」の「ことば」の方じゃなくて、「抹消記号」の方のニュアンスなのである。
ラカンの$(=Sbarre)(抹消記号付きの主体)もそうだけれど、「主体」という文字はペケの下にはっきりと読めるけれど、「どうして『主体』はペケなのか」について抹消線は何も語ってくれない。
そこは読み手が主体的に関与してゆかないとどうしようもないのである。
そういうふうにして言葉をある種の「開放状態」にしておいて、読者がそこに自由に踏み込み、そこから無限に解釈を汲み出せるようにしておくこと。
それがレヴィナスの言説戦略なのである。
でも、この「開放状態」を訳書のうちに毀損せずに転移することは限りなく不可能に近い。
だから、私の訳す『困難な自由』は結局は「ウチダ訳『困難な自由』」にすぎず、他の人が訳したらたぶんぜんぜん別の本になるだろう。
でも、それしかやりようがないし、それで「いい」と私は思っている。
レヴィナスの既訳のあるテクストでも気にしないで、いろいろな人がどんどん訳してみるべきである。
同一のテクストの訳が何種類かあって、読者がそれを好きに選べるという環境を提供することもやっぱり学者のたいせつな仕事のひとつじゃないかと私は思う。なわばりとか気づかいとかをこういう領域で気にすることはないよ。
ですから、全国のレヴィナス研究者のみなさん、ウチダの既訳レヴィナスについても、どんどん新訳を出してくださって結構ですからね。
「おう、なんじゃい。われは、わしの翻訳にアヤつけようってか、こら」みたいなことは言いませんから。
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