16日夜は難波江さんが仕事(『現代思想のパフォーマンス』の新書化)の打ち合わせをかねて「新居祝い」(目覚まし時計)をもって遊びに来た。
「遅刻しないでね」というメタメッセージなのであろうか。
そんなによく遅刻してるかなあ・・・
とりあえずシャンペンをのんでチーズを囓りながら、COLへの取り組みと鼻声シンガーの魅惑について熱く語っているところに山本画伯が登場。
画伯は数日間にお誘いしたときは、イタリア行きの前にタブローをあと数点仕上げなくてはいけないので、とても遊んでいる時間はないという、けんもほろろのご返事であったが、ワインとチーズとパスタの匂いにつられてか、「仕事のあいま」にふらりと顔を出した。
本日のメニューはいつもの「地中海風サラダ」(タコ、スモークサーモン入り、バジルソース掛け)とシーフードパスタ(イカ、海老、貝柱入り、トマトソース味)。それに、ビゴのパンと大丸の地下で買った各種チーズに合わせて、難波江さんの持ってきてくれたブルゴーニュの赤白をいただく。
ワインは絶品。料理もなかなか美味である。
画伯はグルメであるばかりかプロも裸足で逃げ出すほどの料理人であるので、画伯に食事をお出しするときはいささか緊張するのであるが、今回は「うまいね」とぱくぱく食べてくれた。ほっ。
食後に、引っ越し以来散乱したままの画伯のコレクション(タブロー1点、ドローイング2点、版画2点)を画伯みずから壁にかけていただく。
たちまちわが家は「山本浩二ギャラリー」となる。
すばらしい。
私は山本浩二のコアなコレクターであり、精選された作品をコレクトしている。
オープニングの日に行って、ひとびとがワインなどを飲んで社交的な会話をかわしているすきに、目に付いた作品に「売約済み」のステッカーをぺたりと貼って、個展に一般のコレクターが来る前に買ってしまうのである。
画伯の作品はずいぶん値が上がってきたようである。とりあえず、「購入時価格の50倍」まで値上がりしたら転売しようと思っているが、それまでにはまだだいぶかかりそうである。
いずれにせよ、画伯のそれぞれの時期の画風を代表する名作が揃っているので、画伯は私の家に来るたびに「里子に出した子どもの成長を遠くから見守る父親」のような慈愛と後悔のまじりあった複雑なまなざしで自作をみつめている。
ちょうど山本浩二・著 子どもたち・絵 三木健・デザインの『ちきゅう ぐるぐる』という本のゲラが届いたところで、私がそれの帯文を頼まれていたので、「こんなんでどうですか?」と文案をお見せする。
さらりと一瞥して、「あ、いいんじゃないの、これで」とお許しを頂く。
この本は身びいきで言う訳じゃないけれど、すばらしい本である。
四月に店頭に出るころに、このホームページでも広告させていただくから、ぜひ買って下さい。
17日は卒業式。
卒業式に出るのも91年3月から数えて13回目となった。
ずいぶん多くの卒業生を送り出したものである。
むかし女学院に来たばかりの頃、「私は教え子の子どもを教えたことがある」と自慢される先生に何人もあった。
甲羅に苔が生えるほど勤めてないと、そんなことはわが身には起こるまいと思っていたが、最初に送り出した卒業生は今年もう35歳になる。娘さんはうっかりするともう中学生である。こちらがぼやぼやしているとじきに大学生だ。
それだけウチダも甲羅に苔が生えてきたということである。
現に卒業式に見える親御さんたちがすでに私よりかなり年下である。
最近のお母さんたちはみなさん元気はつらつとされていて、後ろ姿をみるだけでは、どちらが親でどちらが娘だか分からない。
どちらかというと、学生の方がひょろひょろと足取りもおぼつかなく、影が薄いくらいである。
なるほどこれでは母親とは「勝負」になるまい。
60年代の「怒れる若者」世代のころ、ジョン・ウェインという作家の『親父を殴り殺せ』というタイトルの小説があった。
そのころは「息子と父親」の確執というか覇権闘争に「息子が辛勝する」というのが世代間の対立の基本スキームだったのである。
だが、どうやら当今は「娘と母親」のあいだのヘゲモニー闘争にシフトし、かつ戦績も「母親が圧勝」のようである。
若い男の子から仄聞するところでも、彼らを心理的に圧倒しているのは父親よりむしろ母親のように思われる。
しかし、「母親に反抗する」ということは心理的にはたいへんにむずかしい。
というのは父親が息子を抑圧するときは、わかりやすい「父権制的価値観」を強要してくるわけで、これに対してはことばで反論することもできるし、親が手を出してくれば、これに応戦することもできる。
ことばで負けて、腕力でも負けても、家以外のどこかにロールモデルとなるべき「父親の代理」(師匠や尊師や親分)をみつけて、それに帰依すれば迂回的に父親からは離脱することができる。
父親にぼこぼこにされても、「キャルってかわいそう・・・」とよしよししてくれるガールフレンドが出てこないとも限らない。
しかし母親による抑圧というのは、そのように明瞭に対立的な構図をもたない。
母をことばで論破してみても、腕力でうち勝ってみても、子どもの側には恥と哀しみと自己嫌悪しか残らない。
加えて、「母親に代わるもの」を家以外の場で見出すということは、もう絶望的に困難なのである。
だって、そうでしょ?
母親というのは平然と子どもの夢をふみにじったあとに、ぽろぽろ泣いて「あんたのことを思って言うのよ・・・」とうつむき、涙をふきつつ「ね、昨日の残りのトンカツあるけど、チンして食べる?」というような話題に瞬時に切り替えることのできるたいへんにタフで融通無碍な存在なのである。
そんなものを同性異性を問わず、軽々に家の外に見出すことができようはずもない。
母親との確執の困難さは、「母親的なもの」を家庭外に見出して、それを迂回して母親の大気圏から離脱するという戦略がなかなか採用しがたいことにある。
そこでウチダからのご提案なのであるが、全国の若い男性諸君(「結婚したいけど相手が・・・」の諸君ね)はここはいちばん「マザーシップ」を前面に押し立てて、若い女性の「お母さん代理」になるという戦略を採られてはいかがであろうか。
というのは、いまの若い女性がいちばん求めているものは、どうやら「お母さんから逃げ出すために、お母さんの代わりになってくれるひと」ではないか、とウチダには思われるからである。
母親の基本的責務は子どもになにはともあれ生理的満足を充当することである。
「ぐっすり眠れる場所」「肌触りのよい衣服」「美味しいご飯」「心地よい音楽」といったものを最優先的に配慮するのが「マザーシップ」である。
「いきがいって、何?」とか「ほんとうの私らしさって、何?」とかいう欲張りな探求は、とりあえず答えが与えられなくても生きていけるけれど、衣食住の「快適さ」はどんな形而上学的悩みをもっている女性にも、いますぐひとしく必要なものである。
しかるに、若い男性向けのメディアを徴する限り、そのように切実に若い女性が必要としているベーシックなものを正確にピンポイントして、それを提供することをリコメンドしている発言をウチダは寡聞にして読んだ記憶がない。
でも、20−30代の独身女性が、とりあえず緊急に必要としているのは、「オレらしさっつうの?」とか「オレ的なこだわりっつうの?」というような寝ぼけた自慢話ではなく、むしろ「トンカツ、チンする?」的な「マザーシップ」ではないのであろうか。
母親以外の人間から「とことん甘やかされる」という経験をしないと、たぶん母親の支配圏から逃れることはできない。
だから、若い女性を「とことん甘やかす」というのは、別にそれによって幼児退行させようというのではなく、「親離れ」させるための戦術的迂回として、むしろ積極的に勧奨されるべきであるように私には思われるのである。
ウチダゼミの四年生は全員無事に卒業された。ご卒業おめでとう。
卒業生のみなさんからイタリアワインと Chritofle のゴージャスなワイングラスをいただいた。
みなさんどうもありがとう。さっそく今夜このグラスでワインをいただくことにします。
合気道部の四年生も8人無事にご卒業となった。おめでとう。
みなさんからはかっこいい「合気道部のユニフォーム」を頂く。
紺のウィンドブレーカーの背中に黄色でKCのエンブレムと Kobe College Team Aikido の文字。
「どうしてAikido Club じゃないの?」
と訊くと、デザイン担当のM川次期主将が
「Aikido Club じゃ弱そうだから、Team Aikido にしろって、お母さんが言うの」
なるほど。
やっぱここにも「お母さん」の支配が及んでいるのであった。
ともあれ、気錬会の黄色いウィンドブレーカーに比べるとぐいっと品質が良い。
「ふふふ、これで気錬会に勝ったな」
と満足げにウッキーをふりかえると
「先生、合気道では勝ち負けを問題にしてはいけないのでは・・・」
ともっともな諫言をされてしまう。
いや、ご指摘のとおりである。
しかし、五月の演武会で揃いのユニフォームで登場したわれわれを見て、気錬会の諸君がどれほど悔しがるか(工藤くんの「あああ、ずるいですよ、こういうのは」という顔まで)ありありと想像できるので、つい頬がゆるんでしまうのである。くくくく。
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(2004-03-17 19:55)