穢れと葬礼

2004-03-15 lundi

ゼミ生のM原くんが「女性と穢れ」をテーマにして卒論を書きたいのだが、何かアドバイスをとメールを書いてきた。
「穢れ」ね。
なかなか興味深いテーマである。
釈先生がつい先日「インターネット持仏堂」に「穢れ」とは「毛枯れ」のことであると書いておられた。
この場合の「毛」は毛髪のことじゃなくて、「二毛作」というときの「毛」の義で、「稲の穂のみのり、またひろく畑作物の総称」のことだそうである。
つまり「毛枯れ」とは「畑に作物が実らない状態」を指す。
なるほど。
「ケガレ」は「気枯れ」という説もあったし。
「穢れ」というのは、少なくとも発生的には、「不潔である」とか「汚れている」という衛生状態についての形容ではなく、「生産力が低下している」状態を指称したもののようである。

世界中ほとんどすべての社会集団で、服喪、産穢、月経などが「穢れ」に類別され、untouchable とされる。
これはいずれも「死と性」にかかわる人間的事象である。
こういう問題について、軽々に「女性は人類発生以来、あらゆる社会で差別されてきた。それが女性の社会進出を妨げてきた」というふうくくって済ませる思考の硬直性を私は評価しない。
そもそも「社会進出」というような概念は近代(ほとんど現代)になってはじめて出現してきたものである。
いまの私たちを共軛している「ドクサ」を基準にして、人類史全体を俯瞰できると思うのは愚かなことだ。
それは「いま・ここ・わたし」が人類史の知的最高到達点であるというエゴサントリックなイデオロギーを表白しているにすぎない。
私たちは私たちの社会を基礎づけているさまざまな制度の「起源」を知らない。
どうして言語があるのか、どうして交換をするのか、どうして生殖につながらない性的欲望をいだくのか、どうして親族を形成するのか・・・私たちはそのどれにも「人間は、そういうものだから」という以外に答えることばを持たない。
人類史の暗闇のなかにその起源が消失している制度について、いまの価値観(高い賃金や大きな権力や豊かな情報を占有することは「善」であるというイデオロギー)を適用して、説明しようとするひとは、原因と結果を取り違えている。
賃金や権力や情報に「価値がある」と信じ込むひとびとがいるのは、これらの人間的諸制度の「結果」であって、「原因」ではない。
賃金は貨幣の発明以後にできた概念である。権力は階級の発生以後にできた概念である。情報は遠距離交易の発生以後にできた概念である。
「穢れ」は貨幣よりも階級よりも交換よりも古い。

「穢れ」という概念をほかの動物は持たない。
ならば、「穢れ」という概念をもつことによって人類はほかの霊長類と分岐したのだと考える方が論理的だろう。
それは「すでに死んだ者」と「これから生まれてくる者」は untouchable であるということを私たちに教える。
少なくとも、「穢れ」に関して、有史以来のあらゆる社会集団に共通して言えるのはそのこと「だけ」である。
untouchable という概念をおそらくほとんどの人は誤解している。
「何か」が存在し、それがある社会の実定的な価値基準に照らして「劣位」であったり「ネガティヴ」であったりするから「触れないところに遠ざける」というふうにふつうの人は考える。
死体は汚らわしい。だから埋める。
そんなふうに考える人間は、ここでも原因と結果を取り違えている。
死体を埋葬する習慣をもつ生物は人間だけである。
なぜ、死体を埋葬するのか?
汚いから?
そんなことはありえない。
生物の死骸なんか、それこそ「枯葉」から「バクテリアの死体」まで、地上にごろごろしているのに、どうして人間の死体だけが「汚い」とされるのか?
それはあえて逆説を弄するならば「人間の死体は生きている」からである。
人類は葬礼という習慣をもつことによって他の霊長類と分かれた。
なぜ、葬礼を行うのか?
理由はひとつしかない。
それは葬礼をしないと死者が「死なない」からだ。
死者は生物学的に死んでも、私たちのまわりにとどまる。
私たちは、死者の使った道具にその「魂魄」が残っているのを感じ、死者のいた部屋に入ると、その気配を感じ、死者に祈ると、その声がきこえる。私たちは死者の祟りで苦しめられ、死者の気づかいで護られる。
人間というのはほんらいそういうふうに「死者の切迫を感知できる」生物なのである。
おそらく、そのきわだった能力によって人間はサルと分岐したのである。

旧石器時代に、私たちの祖先は死者と生者のあいだに境界線を引くために葬礼の制度をつくった。
それは死者が「不潔」だから棄てるという衛生的配慮によるのではない。
そうではなくて、死者とは untouchable なものであるという仕方で、「新しいカテゴリー」を創出するためにである。
私たちには直接触れることができず、理解しあったり、共感しあったりすることもできない「何か」がそこに「存在」する(げんみつには「存在するとは別の仕方で」)。
死者は「存在しない」。だから、私たちは死者と「対話する」ことも「理解しあう」こともできない。
けれども、にもかかわらず「死者たち」は私たちの生き方に深く強く関与し、私たちのなかに「私たちは何のために生きているのか?」という存在論的な問いを起動させる。
ヘーゲル的にいえば、「死者」という概念をもつことによって、人間ははじめて「自己意識」を有したのである。
「死者」という概念を私たちの祖先がつくりだしたのは、死んだ人間は「モノ」ではないという人間特有の幽かな感覚を基盤にして、「他者」という概念を導出するためである。私はそう考えている。
「他者」という概念をもつものだけが共同体を構築することができ、「他者」を感知できるものだけが交換や分業や欲望や言語を創出することができるからである。
「他者」は、私たちと「同じカテゴリー」に属さず、言葉も通じず、共感の基盤もなく、私たちの糧でも道具でもなく、「存在しないのだけれど、存在する」というねじれたかたちでしか私たちにかかわることがない。
人間はそのような「他者」を感知し、欲望する能力を賦与されている。
葬礼はその「他者」という概念を導出するための制度的な迂回である。
そして「すでに死んだもの」を「死者」として untocuhable にしたのと同じロジックが「これから生まれてくる者」に対しても適用され、葬礼の「隔離」の制度に準拠して、生殖にかかわる隔離の儀礼が成立した、というのが「穢れ」にかかわることの順序ではないのかと私は想像する。

「人間である」とは「生まれる前」と「死んだ後」の中間の領域に暫定的にいるということであり、言い換えれば、死と誕生の「むこうがわ」には決して触れることができないという断念を通じて、死と誕生の「むこうがわ」を「その他者性を毀損しないままに概念化する」能力を賦与されてあることである。
分節し、切断することの目的は、「分節より以前」「境界線の向こう側」を欠性的に指示するためである。
女性の産穢や月経についての「穢れ」の感覚は「これから生まれてくるもの」の本源的他者性への畏敬を映し出すものであり、それは「すでに死んだ者」に対する畏怖の思いと鏡像的な関係になっているのではないか、私はそんなふうに考えている。
そのような起源的な「穢れ」が社会的な差別や排除の装置に「頽落」したのは、そのあとの人間たちが、そのときどきの「いま・ここ・わたし」の臆断に基づいて、葬礼や生殖を恣意的に「解釈」した結果であって、起源における「穢れ」の概念に差別や排除の意図があったからではないと私には思われる。(いったいそれによって誰がどのような利益を得るというのか?)

以上の思弁は半分ほどは私のデタラメ人類学であるが、あとの半分は老師の教えである。
死者と繁殖性について、現代の哲学者でいちばん遠くまで進んだのはレヴィナス老師だろう。
『全体性と無限』は繁殖性についての謎めいた議論で終わり、『存在するとは別の仕方で』は死者の鎮魂についての謎めいたエピグラフから始まる。
レヴィナスの人間論は「死んだ後の人間」と「生まれる前の人間」と人間はどうかかわるのかという問題を中心的な論件にしている。
この話は書き出すと長いので(もう十分長いけど)、そのうち出るはずの『他者と死者』を読んでくださいね。
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