あの日に帰りたい

2004-03-14 dimanche

レヴィナスの『困難な自由』の翻訳がようやく「先が三重県伊勢神宮」状態になってきた。
あと39頁。
年度内完成という当初の目標だけはかろうじてクリアーできそうである。(中根さん、よろこんでくださいって・・・むりですよね)
しかし、レヴィナス論の方は手つかずのまま春休みが終わってしまいそうである。(別府さん、ごめんなさい)
この種の論考は精神の集中が必要で、少なくとも二週間くらいそのなかに「没入」するような状態が確保されないと書けない。
だから、学校が始まってしまうともうダメなのである。
その「没入」の二週間がこの春休み中にはもう取れそうもない。
今日も17日締め切りの書評の原稿を書かないといけない。
たぶんそれで一日終わってしまう(それでも書き上がらないかもしれない)。
どうしてこんな仕事引き受けてしまったのかなあ。
もちろん引き受けるときは「お、面白そう」と思って引き受けたのである。
まあ、四五日あればできるかな・・・と予想して、ダイアリーをひらくと、そのときはまだ予定表もしらじらとしている。
そこで、「あ、いいですよ」と気楽に引き受けてしまうのであるが、そういうこまかい仕事でも、つもりつもるとしだいしだいに予定表はくろぐろと締め切りや対談や会議やインタビューやおでかけの予定で埋め尽くされ、執筆時間を捻出することが至難のわざとなるのである。
どうしてこんなに忙しいことになってしまったのであろう。
思えばはじめて芦屋に来た1990年ごろはまことに暇であった。
大学の授業は週に三日だけ。友人も知人もいない土地なので、遊びにゆくあてもない。
こちらもまだ友だちができないるんちゃんと二人で、山手山荘のがらんとした居間で、することがなくてオセロをしたりして時間をつぶしてた。
土日はふたりでよく城山にピクニックに行ったり、芦屋浜に寝転がりにいった。
それでも時間があまってあまって仕方がなかった。
訪れる人もなく、電話も鳴らず、もちろんインターネットなどというヤボなものは存在しなかった。
そのときは「退屈だなー」と思って、ごろごろと本ばかり読んでいたけれど、思えばまことに贅沢な日々を過ごしていたのだった。
あの日に帰りたい。
などと言いながらレヴィナスの翻訳をばりばりやってから、小泉義之『レヴィナス:何のために生きるのか』(NHK出版)の書評をさらさらと書いたら、2時間ほどで10枚書けてしまった(おお、らっきい)。
良い本の書評はらくちんである。
すこし遅くなったが、湊川神社の吟風会の「能と囃子の会」にでかける。
今日は下川宜長先生が正謡会の大先輩帯刀清彦さんの笛で『龍田』を舞われるので、それを拝見に行ったのである。
番組がすこし遅れていて、能『杜若』から、囃子と舞囃子を八番見る。
昨日のお稽古の時に、下川先生が「最近の若い女性はなかなか笛が上手である」とおっしゃっていた。
リズム感がよいのだそうである。
笛は多少音がでなくても、拍子さえきっちりあっていれば、囃子としてはなんとか成立する。
シテ方がいちばんこまるのは「音が出て、拍子があわない」笛だそうである(「拍子が合わないが、音が出ていないので、舞の邪魔にならない笛の方がまだまし」だそうであるが、それだと笛方はなんのために舞台に出ているのかわからないですよ、せんせー)。
たしかに先生の言うとおり、出てくる若い女性の笛方はみんなうまい(とくに『菊慈童』を吹いた松岡久子さんというひとのグルーヴ感はただものとは思われなかった)。
おめあての下川先生の舞囃子はまことに端正である。
ほとんど無機的といっていいほどに計算し尽くされ統制された動きの中に、ある種の「破調」が一瞬ぞくっとするような「色気」を漂わせるのである。
さすが、私のお師匠さまである。
能楽はよいなあ。
全国の青少年諸君には、ぜひ能楽を見ることをお勧めします。
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