名越先生とPonte Vecchio でイタリアンを食べながら考えた

2004-03-07 dimanche

新潮新書のお仕事で名越先生と Ponte Vecchio でイタリアンを食しつつ、4時間しゃべる(よくしゃべるなー)。
名越先生とのお話はいつもスリリングでいて、ほっこりしている。
「スリリングでほっこり」というのは矛盾しているようだけれど、そういうコミュニケーションというのはまれにある。
つまり「情報」レベルでは、こちらのフレーミングを変更しないと対応できないような「えええ、ちょっと、待ってくださいよ」的な驚くべきデータががんがん流れ込んでくるのであるが、その「情報」を伝達する「回路」そのものはたいへんフレンドリーなのである。
音質のソフトなオーディオで「エッジのきいた曲を聴く」とか、舌触りのやさしい銀のフォークとナイフで「激辛食品」を食べるとか、いしい・ひさいちのマンガで『精神現象学』を読むとか、まあ、そういう種類の経験であると思っていただければよろしい。
ご飯は美味しく、話はおもしろく、たいへん愉快にして有意義な一夕でありました。
新潮社のみなさんごちそうさま!
この対談はあと一回東京でやって、秋頃には新書になる予定である。もう終わりかと思うと、なんだか残念。
今回の新書は「こども」がメインのテーマだったので、ふたりとも大好きなマンガの話や武道の話や「あやしい人々」の話やUFOや悪霊の話はぜんぜん出なかった。
もっと続けたいので、どこかの出版社で「次の企画」を立てて下されば歓迎。
条件は対談のときに「美味しいご飯と美味しいワイン」をだしてくれること。

いま進行中の企画はほとんどが「対談もの」である。

この名越先生との「こども論」のほかに、平川克美くんとの「東京ファイティングキッズ」、釈徹宗先生との「インターネット持仏堂」、池上六朗先生との「治療論」、三砂ちづる先生との「身体論」、甲野善紀先生との「現代社会論」、名越先生、鈴木晶先生との「暴走トーク」、田口ランディさんとの対談本・・・

これはもちろん私が「書き下ろし」はむりですけど、「対談」や「往復書簡」ならできるかも・・と出版社サイドに言ったせいもあるのだけれど、それだけではないような気がする。
先日、関西電力の Insight の鼎談の司会をしていて分かったのだけれど、私は「何かと何かをつなげる」のがけっこう好きなのである。
私自身になにかぜひとも申し上げたいオリジナルな知見があるわけではないのだが、「何かと何か」のあいだに「関係」や「比」や「和音」を発見することは大好きなのである。
そう考えてみると、私の研究テーマが「レヴィナスと合気道」という、一見するとなんの関係もなさそうなもののあいだに「つながり」を発見することであるというのも納得がゆく。
私はレヴィナス研究者としても合気道家としても、まず「三流」どころである。
しかし、自慢じゃないけど、「レヴィナスと合気道」の「合わせ技」の領域については、堂々の「国際的権威」と申し上げてよいかと思う。
そんな領域を専攻している人間なんて、おそらく世界に25人くらいしかいないからである。
まして「レヴィナスと合気道と能楽」というふうにレフェランスを三つにすると「世界一」と申し上げて過言でない(一人しかいないんだから)。

しかし、この「合わせ技による専門領域の特化」という戦略をとる方は少ない。
なぜかほとんどの人は「人がやっている組み合わせ」を模倣する。
ピアノが弾けて、英語がしゃべれて、コンピュータにくわしい人間はおそらく世界に10億人くらいいる。
そういう中で「国際的権威」になることはきわめて困難であると言わねばならない。
しかし、胡弓が弾けて、フランス語がしゃべれて、和算にくわしい人間となると、たぶん世界に3人くらいしかいない。
ピアノが弾けるようになるために要する手間暇と、胡弓が弾けるようになるために要する手間暇のあいだにおおきな隔絶はない。英語とフランス語も同様。コンピュータと和算も同様。
おなじ手間暇をかけるのであれば、合算しても世界に10億人いるような「専門」よりは、世界に3人しかいない領域の「専門家」になるほうが(有利とはいわないまでも)、本人にとっては楽しいのではないか。
少なくとも、私は楽しかった。
ただし、合わせ技が有効なのは、コーディネイトが「意外」な場合に限られる。
「まさか、これとこれが結びつくとは・・・」
というようなびっくりの組み合わせでないと意味がない。
しかし、「意外すぎる」とそもそも「結びつき」が生じない(「フーリエ解析と『通販生活』の専門家」とか「ラッキョとたんつぼの専門家」とかには、あまり仕事がない)。
このへんのさじ加減がむずかしい。

私の特技はこの「意外なものと意外なものを結びつけるさじ加減」の調整能力にあった、ということ最近になって気づいた。
対談というのは「自分にはぜひとも言いたいことがある」という人同士がやっても、あまり面白くない。
「私のことはともかく、あなたのお話をぜひうかがいたい」という人同士がやったら、さらに面白くない。
そうではなくて、「私がよく知っていること」と「あなたがよく知っていること」の「あいだ」にそれまでふたりとも思いつかなかったような「架橋」が成り立つときに、対談は面白くなるのである。
私はどうやらこの「架橋」という仕事がたいへん好きらしい。
うまれついての「コーディネイター」なのかもしれない。
おお、そういえば、レヴィナスの翻訳が終わったあとに仕上げる本のタイトルも『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』。
「他者」と「死者」のあいだには一見何の関係もなさそうだが・・・という話と、ラカンとレヴィナスのあいだには一見何の関係もなさそうだが・・・という話だけで300頁の本を書こうというのである。
私は根っから「・・と・・のあいだには、一見何の関係もなさそうですが・・・」という話形が好きなのである。

今夜から11日(木)まで恒例の「極楽スキーツァー」である。(いま間違えて「極楽温泉ツァー」と打ってしまった。無意識的欲望を端的に語る失錯行為である)
しばらく日記はお休み。
では、みなさん行ってきます。
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