後期入試。これにて04年度の入試シリーズはおしまいである。
やれやれ。
どうなることか蓋を開けるまで分からなかった04年度入試であるが、出願状況に変化が見られたことはメディアが報じているとおりである。
「女子大回帰」志向が顕著に現れたのである。
東京では白百合、聖心、昭和女子大などが志願者を増やし、関西では京都女子大、同志社女子大、そして本学が志願者を増やした。
繰り返し書いているとおり、ほとんどの大学が前年比割れをしている中で、志願者を増やすというのは、「異常事態」である。
どうやら、ここ10年来の女子学生の「共学志向」「実学志向」「キャリアアップ志向」が上げ止まりしたらしい。
先週の「週刊朝日」のいささかジャーナリスティックな分析によれば、「わりと偏差値が低いので入りやすく」、「でもブランド力はあって」、「おじさん受けがいいので、就職率が高く」、「二三年勤めて、さらっと『寿退社』コースをねらう女性にベストチョイス」という「1.5流女子大」に人気が集まった、ということらしい(津田塾や東京女子大のような「一流女子大」はむしろ志願者を減らしている)。
要するに、いま顕在化しつつあるのは「勝ち犬シフト」の徴候である、という分析である。
そうかー。「勝ち犬シフト」かー。
まことに若い女性の機を見るに敏であることには刮目せねばならない。
しかし、「勝ち犬」人生を求めて本学に出願された受験生のみなさんには、たいへん申し上げにくいことであるが、わが神戸女学院大学は実は「負け犬の名産地」として知られた大学なのである。
正確な統計を取ったわけではないが、本学の卒業後10年後の結婚率はおそらく30%台のはずである。
残る60ー70%は「三十路、未婚、子なし」の「負け犬」集団であり、おまけにその相当数は加えて「キャリアなし」の「スーパー負け犬くん」である。
なぜ、このような憂慮すべき事態が生じたのか、これについては私も教員のひとりとしてアカウンタビリティを感じている。
ウチダの見るところ、「スーパー負け犬くん」の大量発生には二つの理由がある。
一つは「親がリッチ」ということであり、一つは「サクセスした同期生が多い」ということである。
そう。
まことに不思議なことではあるが、「親がリッチで、友人にサクセスしている人が多いと、スーパー負け犬くんになりやすい」の法則というものが厳として存在するのである。
これは阪神間ブルジョワジーに蔓延するある種の「風土病」と申し上げてもよろしいかと思う。
その病因と発症の連関は考えてみれば、お分かりいただけるはずだ。
「親がリッチ」であると、子どもの「勤労意欲」がいちじるしく阻害される、ということはすぐにお分かりいただけると思う。
そりゃ、そうだね。
「ねえ、パパ、免許とったの!」
「おお、そうか。じゃ、父さん、こんどジャギュアに乗り換えるから、あのポルシェ、お前にあげるよ」
というような家庭環境で育った子どもが時給800円のマクドのバイトをするはずがない。
しかし、それはある意味、不幸なことだ。
というのは、実際にその子が親のコネなしで、労働市場に放り出された場合に、とりあえずは時給800円の仕事しかないわけだが、数ヶ月こつことと働いて50万円貯金した場合に得られる達成感は、親の年収が200万円の家庭の子どもが同額の貯金をなしとげたときの達成感と比すべくもないからである。
親がリッチだと、子どもは「額に汗して働くことのヨロコビ」から遠ざけられる。
だって、「額に汗して働くことのヨロコビ」というのは、周囲の人々から「えらい!」「ありがとう!」「あなただけが頼りなの」「わが家の希望はおまえの双肩にかかっているのだ」といったことばを繰り返し寄せられることで事後的に得られるものだからだ。
仕事がどれほどきつくても、自分のこの苦役が愛する人々の生活を支えていると思えばこそ、「額に汗する」ことはヨロコビとして経験されるのである。
「その労働に周囲の誰も期待していないし、誰も依存していない労働」が私たちに「達成感」をもたらすということはありえない。
だから、「親御さんがリッチ」という条件は、いきなり子どもたちから「労働することの誇り」を奪ってしまうのである。
親がリッチな人は、自分の「分相応」の仕事については「意欲」も「達成感」もなかなか持つことができない(結果的には、そのことが「社会的能力を段階的に獲得する」ことを妨げる)。
これが「スーパー負け犬くん」発生理由の一番目。
第二の理由は「サクセスしている友人が多い」という点である。
本学はご存じのとおり「スーパー勝ち犬くん」をぞくぞく輩出している。
ビジネスで、学問で、メディアで、アートで、社会活動で、ご活躍するばかりか、すてきな夫とかわいい子どもたちに囲まれて「めちゃハッピーな」家庭生活を過ごされている同窓生は枚挙にいとまがない。
ふつうは、そこまで「絵に描いたような勝ち犬人生」を送っているひとにはめったにお目に掛かる機会がない。
ところが、本学のキャンパスでは、諸般の事情により、「絵に描いたような勝ち犬人生」を謳歌されている同窓生のおばさまがたが、シックな宝石をさりげに飾り、イタリア製の靴音もたからかに、磨き上げたベンツのドアから「しゃっ」と降りてくる・・・というような風景にたいへん頻繁に遭遇するのである。
「サクセスして、ハッピーな同窓生」は学生にとっては「励み」であると同時に「プレッシャー」としても機能している。そのような先輩を「モデル」に想定して、そこからの減点法で「いまの自分」との差を計量していたら、誰だって気が滅入ってくる。
同じことが同世代でも起こる。
自分と同期の人々が、はなやかな成功を収めていると聞くと、ひとは「焦る」。
うちの卒業生で「花咲く」ひとは、けっこう早い段階で社会的評価を獲得し、メディアに名前が出て、写真が新聞雑誌を飾ったりする。
同期生としては「焦る」よね。
「おっと、こうしちゃいられないわ」
ということになる。
焦る人々は
「私、こんな職場でくすぶっているわけにはゆかない」とか
「こんな仕事じゃなくて、ほんとうの私らしさが発揮できる仕事に就くべきだわ」とか
「こんな人じゃなくて、私の隠された才能と魅力を理解しているひとといっしょにならなくちゃ」
ということを言い始める。
しかし、焦って事態が好転するということはあまり、ない。
こういうことを言う人間は、残念がながら、ごく少数の例外を除いて、ほとんどが吸い寄せられるように「キャリア・ダウン」のコースをたどることになる。
友人があまりにサクセスフルな場合は、ひとは自分のいまの状況に違和感を覚えて「ここではない、もっと日の当たる場所」を渇望するようになる(結果的には、それが「いまの状況」における周囲の人々からの評価や信頼を損なうことになる)。
「勝ち犬」量産システムに身を置くということは、逆に言えば、その「勝ち犬」たちを自分の「サクセス」のめやすとして採用せざるを得ないがゆえに、「不充足感」に苦しむ可能性が他の場所よりも高いということである。
不充足感につきまとわれている人間は「いまの自分の正味の能力適性や、いまの自分が組み込まれているシステムや、いまの自分に期待されている社会的役割」をクールかつ計量的にみつめるということがなかなかできない。
それは、言い換えれば、「分相応の暮らしのうちに、誇りと満足感と幸福を感じる」ことがなかなかできない、ということである。
人生の達成目標を高く掲げ、そこに至らない自分を「許さない」という生き方は(ごく少数の例外的にタフな人間を除いては)、人をあまり幸福にはしてくれない。
あまり言う人がいないから言っておくが「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。
幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。
ま、それは別の話だ。
しかし、だからといって、ここまで読んだ受験生諸君が「じゃあ、神戸女学院大学なんか受けるのやめよう」と思うのは短見というものである。
それは話が逆。
いまの日本において、本学はまず「負け犬対策」における超先進校であると申し上げて過言ではない。
ワクチンは風土病の発生現場でしか作られない。
そういうものである。
だから「勝ち犬シフト」の諸君も、「勝ちとか負けとか、そもそも私は『犬』になんかなりたくない。私は『人間』になりたい!」という諸君も、すべからく本学に結集されんことを訴えて、ご挨拶に代えたいと思います。
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(2004-03-02 16:30)