2月22日

2004-02-22 dimanche

終日翻訳。
残り60頁。85%が終わった勘定である。
あとは一瀉千里。
なんとか2月中には5,6年引っ張った『困難な自由』も片が付きそうである。
やれやれ。
夕方から西宮北口の「花ゆう」へ。
ナバちゃんとの共著『現代思想のパフォーマンス』がこのたび出版社を改め、光文社から新書で刊行されるということになったので、その打ち合わせである。
『現代思想のパフォーマンス』は(自分でいうのもなんですが)わりとよい本である。
ただ、小さな出版社から自費出版で出したものなので、単価が2800円と割高で、4年かかって1500部しか売れなかった。
ふつうの書店には置いてなかったから、本の表紙さえ見たことがないという方が多いと思う(きれいな装丁なんだけどな。山本画伯の力作で)
それを惜しんだ光文社さまが「500頁の新書(ってふつうの新書の二倍の厚さ)980円でどーだ!」というたいへんに大胆にして雅量あふれる企画を立てられたのである(問題はその厚さで新書版に製本できるかどうか、である)。
新書になれば廉価でみなさまにお買いあげ頂けるわけで、書いた人間としてはこれほど嬉しいことはない。
10月が光文社新書発行3周年ということで、それにあわせて「ばーん」と店頭に並べたいというのが先方のお考えである。
改版するときは、レヴィナスとデリダの項を書き足そうと、ナバちゃんと取り決めていたのであるが、むしろ頁数をどうやって削るかを考えないといけないし、日程的にぎりぎりなので、増補は今回は見送り。
むしろ新書版で『現代思想のパフォーマンス』の「その2」「その3」と続けたらいかがかということをご提案させていただく。
だって、ほら。バタイユとかサルトルとかカミュとかブランショとか、書いてない人がまだまだいくらもいるじゃないですか。
新書版で現代思想が一覧できるというのは、(クセジュ文庫みたいで)なかなかいい企画だと思うけどな。
ナバちゃんはナバちゃんで光文社新書から思想系の単著を出すことになっている。
冬弓舎からもうすぐ『恋するJポップ』(Jポップ135曲の「歌詞テクストの構造分析」というレアものだ)も出るし、ナバちゃんも今年は三冊だ。
よく働くよね、ぼくたち。
というわけで話がぱたぱたとまとまり、あとは光文社新書編集長の古谷さん奢りの花ゆうの美味しいご飯(お造り、野草の天ぷら、蟹、スッポン鍋、雑炊)を頂きながら、もっぱら音楽と大学で盛り上がりつつ痛飲。
ごちそうさまでした。

行き帰りに、高橋伸夫『虚妄の成果主義』(日経BP社)を読む。
成果主義の導入ということがお上から告知されて、民間企業に続いて、大学でも教職員の「勤務考課と昇給昇格への反映」ということが取りざたされるようになってきた。
ウチダが旗振り役をしている「教員評価システム」もその成果主義的な査定が必要であるという前提に立って提言されたものである。
しかるに、高橋先生によれば、成果主義は害あって益なし、流行の経営理論への盲目的拝跪以外のなにものでもない。
おとっと。
そ、そうなんですか。
高橋先生によると、人間は「金銭的報酬による動機付けではパフォーマンスがあがらない」という冷厳たる人類学的事実がある。
心理学者デシが1975年にやった実験では、学生たちにパズルを解くという課題を与えた。パズルはわりと面白い。セッションの途中に休憩時間をとる。すると休憩時間にも学生たちはコーヒーをのみながらもずっとパズルを解いている。
ところがセッションの途中の休憩のときに、それまでの拘束時間に対するバイト料を払うと、休憩時間にパズルを解く学生が激減した、というのである。
つまり、金銭的報酬をもらってしまうと、人間はその課業に対する興味を失うのである。
人間が労働においてパフォーマンスを上げるのは、その仕事そのものに内発的に興味を惹きつけるものが含まれている場合であって、金銭的報酬を与えると、興味は相殺されて、パフォーマンスはむしろ低下するのである。
高橋先生が引いていたもうひとつの面白い例。
第一次世界大戦後、ユダヤ人排斥の気運が高かったアメリカ南部の街で、子どもたちがユダヤ人の仕立屋の前に行って、「ユダヤ人! ユダヤ人!」とはやし立てた。
困った仕立屋は一計を案じた。
そして悪ガキをつかまえて
「私のことを『ユダヤ人』と呼ぶ子には10セントあげる」
と申し出たのである。
ガキどもは大喜び。全員10セント玉をせしめて帰途についた。
次の日も10セントもらいに仕立屋にゆき「ユダヤ人! ユダヤ人!」とはやし立てると、かのユダヤ人は
「今日は悪いけど5セントしか上げられない」
と悲しげな顔をする。
ま、それでもいいかと子どもたちは引き上げる。
次の日も来て子どもたちは「ユダヤ人! ユダヤ人!」と叫び立てた。
するとユダヤ人は「もうこれで精一杯」と言って、全員に1セント与えた。
すると子どもたちは
「なんだよ、おとといの10分の1じゃないか。ふん、バカバカしくって、こんなバイトやってられっか」
とぷりぷり怒って帰ってしまい、二度と仕立屋のところには来ませんでした(ちゃんちゃん)
さすが昔からユダヤ人というのは、金銭の機能というものを熟知している。
子どもたちは最初「職務遂行」そのもののうちに快楽を見出していたが、それが「金銭的報酬」を得たことによって、「職務遂行」と「職務満足」のあいだに「金銭的報酬」が介在することになり、「遂行」と「満足」が分離されてしまったのである。
教訓:人は金のみでは働かない。ワーク・モチベーションは金以外のところに求めなければならない。
高橋先生のご提案はだから、勤務考課はもちろん必要だけれど、高いパフォーマンスに対しては金銭的報酬ではなく、「より面白い仕事」「より困難な仕事」「よりリスクの多い仕事」に配置するというかたちで報いるのがいちばん効果的である、というものである。
「私の暫定的な結論は、日本型の人事システムの本質は、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムなのだということである。これが繰り返されるとどうなるか。そう、仕事の内容自体に、加速度的に差がついてくるのである。昇進、昇格、昇給もその後を追って、それに比例する形で差がついてくる。これは正確な意味での年功序列ではなく、『日本型年功制』と呼ぶべきものなのである。」(28頁)
なるほど。
納得。
しかし、困ったことに、この考え方をそのまま教員評価システムに適用することはできない。
というのは、大学教員の主務は「研究・教育・行政」であり、そのうち職務内容と賃金のあいだにリンケージがあるのは「行政」だけだからである。
それも選挙で選ばれた期間だけの職位であり、任期が終わればまた「ヒラ」の教員に戻る。
その高い職位の仕事も多くの場合「より困難」で「よりリスク」が多い仕事ではあるが、必ずしも「より面白い」仕事ではない。
もちろん職務手当も冗談のような金額である(理事会は、その冗談のような職務手当をさらに減額しようとしている)。
だから、90%の教員は行政的に高い職位につくことよりも、「ヒラ」でいいから、研究教育活動に思う存分時間を使うことを望んでいる。
つまり大学行政における高職位の教員は、「犠牲者」なのである。
その一方、研究・教育については、きわめてアバウトなレビューしかなされていない。
研究教育活動において有意な差があっても、年齢が来ると自動的に昇格昇給してゆく。
やってもらやらなくても、地位も給料も一緒というのでは、集団内部には職務上のパフォーマンスを高めるための動機づけが「ない」ということである。
学外の機関によるピア・レビューや市場からの査定があるにしても、それは学内的な昇格昇給とリンクしていない。
しかし、そのことはあまり不満としては語られない。
というのは、研究教育活動では、その職務内容を面白くするかつまらなくするかは一に教員本人の努力にかかっているからである。
面白いテーマを選び、ごりごり研究していれば、時間の経つのを忘れるほど愉しい。
カッキ的な教育方法を考案し、ごりごり実践していれば、これまた笑いが止まらないほと愉しい。
この領域ついては「努力した分だけ『おもしろさ』によって報われる」という動機付けが貫徹している。
だから、研究教育活動に興味がない教員はつまらない日々を送っているわけで、その人を「うらやむ」ということは起こらないのである。
しかし、行政的活動はそうはゆかない。
この領域では「努力した分だけ報われる」ということがない。
仕事をばりばりこなす人間はますます多くの仕事をおしつけられて苦しみ、仕事をしない人間は、ますます仕事がなくなって楽になるという「恐怖の逆フィードバック」システムなのである。
「働かなければ働かないほど利益を得る」ということは、どのような限定的な職域のことであっても、結果的には致命的なモラルハザードを学内に醸成しかねないであろう。
どこかに「ワーク・モチベーション」を設定しなければならない。
それはおそらくは「職責に対する敬意」ということ以外にはないであろう。
まわりから「どうもご苦労様です」と感謝されるという事実だけが、この逆フィードバックに耐える力を職位にある人間に与えてくれる。
それでも、「金銭的報酬」は「敬意」のひとつの(あくまでひとつの)表現ではありうると思うのである。
あくまでひとつの、ですけど。
--------