暖かい。
もう春なんだね。
岡田山ロッジに合気道のお稽古にでかける。
さんさんと差し込む春の日差しの下でばりばりとお稽古をする。
本日のテーマは「返し技」。
うちの道場では、4月が新入生用の「基本めにう」で、だんだん難度を上げていって、この時期がいちばんややこしい技になる。
そしてまた4月になると基本に戻る。
よくしたもので、難度を上げたあとに基本に戻ると、基本というのがどれほどむずかしいか分かる。
ややこしいはずの「返し技」は実は「簡単」なのである。
今日やったのは正面打ちから受けが諸手取りに捌いてからの返し技。
これはふつうの諸手取りよりも技のオプションが「多い」。
相手がのろのろとやってきて、両手でじっと立っているこちらの片腕をぎうっとつかむ、という想定でやるより、こちらが先手で打ち込んで、相手が必死になって捌いて、こちらの片腕を両手で抑える、という条件の方がこちらの選択肢が飛躍的に増えるのである。
動きはもちろん返し技の方が速い。
相互の身体の位置関係もそのつど変化する。
にもかかわらず、相手の動きが速くて、相互の立ち位置や、接点のずれや力の方向がランダムである方が、合気道の技は効くのである。
合気道の技というのは、双方がごちゃごちゃ動き回って、何がなんだかわからなくなっている状態において、いちばん効くのである。
というか本来武道の型というのは、すべて「そういうふうになっている」のである。
相手がいちばん速く動き、いちばん身体感受性が高まり、どんな入力に対しても即応できるくらいに敏感になっているときにこそ、武道の型は「決まる」。
つまり相手が「最強」の状態にあるときに「効く」かたちを武道は「型」として定型化したのである。
だから、相互の関係のランダム度が高い返し技の方が、相互の動きが固定化されている基本よりも「簡単」なのは当然なのである。
武術の「型」を効かせるのがむずかしいのは、相手がぼおっとして、身体感受性が最低になり、身体が硬直して、「とりあえず痛覚を最小化して、嵐がゆきすぎるのを待とう」という「狸の仮死状態」になっているときである。
もちろん「狸の仮死状態」にあって硬直している人間なんか、そこらにある石ころで殴りつければ終わるのであるから、術なんか使う必要はない。
でも術なんか使う必要がないにもかかわらず、あえてそこで術を使うというありえない条件を課すところに初心者相手の基本技の難しさはある。
ものすごく難しい。
恐怖心や猜疑心でがちがちになっている身体に術をかけるということを繰り返し稽古するのが稽古の稽古たる所以なのである。
そのことを理解していただくために、基本よりも実はずっと「簡単」な、「複雑な」条件を課して、返し技を稽古する。
複雑な方が話は簡単。
術理にかなった動きをする人間の方が統御しやすい。
この逆説は実は非常に汎用性の高い人間的知見なのである。
「生兵法は怪我のもと」
ということばは、おそらくこの逆説を私たちに教えるためのものである。
でも「生兵法」の段階を通過することなしには、「兵法」の次の段階には進めない。
武道は、あらゆる段階に「背理」が仕込まれている。
「なんだ、こうすればいいんじゃないか」
という賢しらを痛撃するような逆説が修業の全段階に仕掛けられているという点に武道の本質的な開放性は存する。
武道というのは、徹底的に知性的な(つまりはエンドレスの)体系なのである。
だから、あらゆる人間的活動がそうであるように、武道においてもまた「なんだかわかった」ことによってもたらされる災厄はつねに「なんだかわかんなくなっちゃった」ことによってもたらされる災厄よりも大きいのである。
というわけなので、ウチダもやればやるほど「なんだかわからなくなっちゃった」のである。
すまない。
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(2004-02-21 00:00)