2月19日

2004-02-19 jeudi

とある経営者セミナーの朝食会にお招きいただいて、講演をする。
朝7時半からというので、前の日から会場の帝国ホテルにお泊まりする。
16階のツインルームから大阪の夜景を見下ろしながら、ジャック・ダニエルズなどをいただくが、ほかにすることもないし、何しろ早起きしないといけないので、はやばやと寝る。
しかし、例によって、何をしゃべるか全然考えないで来てしまったので、寝付いてから心配になりはじめ(そういう気の弱いところもウチダにはある)、輾転反側。夜中に二度も目が覚める。
しかたがないので、午前3時に二度目に目が覚めたときに、起きあがって5分ほど考えて、「あらすじ」をまとめる。
あらすじが決まると気楽なもので、そのままがおーっと時間まで爆睡。
経営者セミナーというのにお招きいただくのは、これで三度目である。
どうして私のようなもののほら話を実社会でご活躍のまっとうな経営者のみなさまがお聞きになりたがるのか、ウチダには理解の及ばぬことであるが、1時間ほど時事漫談をするだけで、厚めの封筒にはいったお鳥目がいただけるというまことに結構なバイトであるので、確定申告後、経済的窮状にあるウチダとしては軽々に断ることのできるものではない。
今回は「アメリカン・グローバリズムに明日はあるのか?」というお題で一席伺う。
さいわい一昨日の朝日カルチャーセンターでの講演のためにロック、ホッブズ、トクヴィル、ジェファーソンなどを読んでいたので、「イギリス近代市民社会論からアメリカン・デモクラシーへの変遷において、人間観はどのように変わったのか」という昨日の日記に書いたばかりのネタをご披露する。
アメリカ資本主義の成功は「人間はバカだ」というシニックな洞見にもとづき、「バカがもたらす災厄を最小化するためにはどうすればいいか」というリスクマネジメントを社会システムの根幹にすえたことにある。
人間は知性や徳性に欠けた統治者を選び、自己破壊的なプロジェクトに血道を上げ、いちばんたいせつなものをゴミのようなガジェットと捨て値で交換する。
そういう生き物である。
それを「やめなさい」と言っても無駄である。
バカにむかって「バカはやめなさい」と説得を試みるするということ自体、「あなたにとってたいせつな時間とエネルギー」をむなしくドブに棄てていることであり、それをしてひとは「バカな行い」と呼ぶのである。
そうではなくて、統御可能なものを統御することに踏みとどまろうというのがアメリカ的ソリューションなのである。
なぜなら、「バカ」は統御不能であるが、「バカがもたらす災厄」は統御可能だからである。
「災厄」というのは基本的にはシステムの上で起こる現象である。
イギリスの近代市民論は「人間は自己利益を最大化するオプションが何であるか分かる程度には賢い」という前提に立っていた。
アメリカの独立宣言の起草者たちは「人間は自己利益を損なうオプションをしばしば選択する程度に愚かである」という前提に立っていた。
どちらが経験的に汎用性が高いかは論じるまでもない。
とにかく、そんなふうにしてアメリカン・グローバリズムは世界を席巻したのである。
私はこれを退けるものではない。
ジェファーソンやフランクリンやワシントンの「シニスム」にはたしかな経験の裏づけがある。
彼らはタイトな植民地独立戦争の過程で、「人間は愚かだ」ということを骨身にしみて味わったのであり、それはアームチェアーに座って思弁に耽っていたロックやホッブズの市民論よりはるかに人間についての透徹した観察に基づいている。
アメリカ的システムの根本には「アメリカ人に対する不信」がある。
だが、今のアメリカン・グローバリズムの信奉者にそこまでのシニスムはあるかどうか、私は懐疑的である。
アメリカの経営者は自分たちの成功が「バカが経営者になっても大丈夫な社会システム」の効果であるということをすずしく見つめているであろうか。
むしろ「自分がクレバーだから例外的に成功した」と勘違いしている経営者の方がしだいに増えているのではないか。
さきほどTVのニュースでエンロンの元最高経営責任者が逮捕されている映像が流れていた。役員が根こそぎ刑事訴追を受けるらしい。
これを見て
「なんと、アメリカの企業経営者というのはモラルが低いのであろう」
とアメリカ企業のモラルハザードの非をならしたのでは曲がない。
そうではなくて、ここは
「アメリカの企業というのはモラルの低い人間が経営者であっても世界一の業績があげられるほどに『バカのリスク』を最小化するシステムが完成している」
ことに感動する、というのが反応としては汎用性が高いのではないか。

などという暴論を1時間にわたって語る。
朝食会に参列された方々は、最初のうちはにこやかに話を聞いていたが、しだいに顔面紅潮、やがて顔面蒼白となり、「こいつは何をしゃべっておるのか」という怒りを表情に表していた方も散見された。
というわけで、言いたい放題言った後に、差し出された「講師謝礼」をしゃかっと内ポケットにしまい込み、『フォー・ルームス』の第四話で、指を斧で切り落としたティム・ロスが1000ドル紙幣をかっさらってホテルの廊下を走って逃げるような勢いで脱兎のごとく帝国ホテルをあとにする。

この頁をご覧の全国の経営者セミナー企画担当のみなさま。
ウチダはお呼びがかかればどこへでも参りますが、呼ばれたあとに
「あんの野郎、言いたい放題ぬかしやがって。おう、野郎、どこへずらかりやがった。」
「兄貴、もぬけの殻ですぜ」
「けっ、逃げ足のはやい野郎だぜ」
的な展開になることがあっても責任は負いかねますので、その点あらかじめご了承ください。

てなことを言って3時間もたたないうちに、次の講演依頼がやってきた。
実は本日13時に研究室で講演についての面会の約束をしていたのであるが、そのアポイントメントをまるっと失念して(そういうことをしばしばやるのである。ウチダは)会議に出ていて、研究室に戻ってきて顔面蒼白となる。
なんと私はK家K務員共済組合連合会のS芝博士を50分間も寒い廊下にお待たせしていたのである。
白髪の温厚なる紳士であるS芝博士は、私の非礼を咎めることもなく、莞爾と微笑み、一揖するとさっそく来意を告げられた。
共済医学会というお医者さんと看護士さんと検査技師のみなさん800人が集まる学会で一席「特別講演」を、というご依頼である。
私のような人間に医学会で講演させようとは、いったい何を考えられているのか・・・と怪訝な顔をするウチダに、博士は諄々とその理路を説かれた。
博士はなんとウチダ本の愛読者であられたのである。
そればかりか博士のご友人たち(つまり私より15歳ほど年長のみなさん)のあいだでも近年ウチダ本がなかなか好評なのだそうである。
「ウチダ先生はご存じないでしょうね、その世代にファンが多いなんて」
知るわけないですよ。
「戦中派」にあたるこの世代の知識人の吟味に耐えるほどの知見を私が語っているとはとても思えないのである。
「いや、ウチダさんのは正論です。たいへんまっとうなご意見を述べておられる。医者たちは、ああいうことを言ってくれる人を待っていたのです」
と太鼓判を押して頂いた。
そ、そうかなー。
共済医学会ではこの数年五木寛之、井上ひさし、江崎玲於奈、養老孟司といった方々が講演をされている。ウチダごときがそのリストの末席を汚してよいとは思われないが、先方が「いいから、来て、好きなことをしゃべってくださればよろしい」というご依頼であるから、ウチダに断る理由はない。
というわけで「身体と倫理」というタイトルで(おや、どこかで聞いたような・・・)一席伺うことになる。
一時間半ほど談論風発、愉快な時間を過ごして、ではお見送りをと席を立つと、S芝先生が鞄から『子どもは判ってくれない』を取り出し、「ひとつオートグラフを・・」と申し出られたので、さらさらとネコマンガを書いてお渡しする。
「やあ、これで悪友たちに自慢ができます」
とS芝先生は破顔一笑されていたが、あれを見て、「おお、これが音に聞くウチダの『ネコマンガ』か、いいなあ、オレも欲しいなあ」と喜ぶような古希近い紳士たちが存在するというのはほんとうのことなのだろうか?
そういえば、S芝先生は年齢的には池上六朗先生と同じくらいである。
シックでフレンドリーで知的なたたずまいも池上先生に通じるものがあった。
そういう「おじさん」たちに私の本が愉しく読んでもらえているというのは、まことに嬉しいことである。
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