2月16日

2004-02-16 lundi

朝日カルチャーセンターで五回目の講演があるので、その下準備をする。
今回は「身体と倫理性」というお題である。
別に深い考えがあってつけたタイトルではないので、何を話してよいのか、わからない。
そいうわけで、例によってどたんばになって、じたばたとネタを考える。
やはり世の中のプロの講演巧者のみなさんは、いくつか「ネタ」を持っていらして、それをあちらこちらの会場で繰り返し演じられるというスタイルでおやりになっているのであろう。
だが、ウチダは「同じネタ」で話すと、本人がすぐに飽きちゃうので、このわざが使えない。
考えてみれば飽きているのは私だけで、聴衆のみなさんはあちらとこちらでは別人なのであるから、同じ話をしてもぜんぜん構わないのであるが。
なんかね。
ダメなの。
ウチダは「飽きる」ということについてはまことに節度のない人間である。
何にでもすぐに飽きちゃうのである。
そして、「何にでも」のうち、ウチダがいちばん頻繁に接し、その思考嗜癖などを熟知しているのは、当然のことながらウチダ本人である。
しかるにウチダ自身はご案内のように「ハーバーライト」であり「センチネル」であることをその社会的召命としている上に、家にじっとしているのが好きで、同じものを食べるのが好きで、どこに行くにも一度道筋を決めたら二度と変えないというくらいにルーティンが好き・・・という変化に乏しい人生をすすんで送っているわけである。
であれば、ウチダ自身がウチダであることに飽き飽きすることは自明の理路といわねばならない。
であるから、頻繁に引越をするとか、言うことがそのたびにころころ変わるとか、同じネタで講演がしたくないくらいの多少のわがままはご海容願わなくてはならない。

「身体と倫理性」について新ネタをいろいろ考える。
こういうときは「昔の人」の書いたものを読むとかえって刺戟的である、ということがあるので、「共同体論」について書かれた古典をひっくりかえす。
トックヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』、スペンサーの『進歩について』、ロック『統治論』、ホッブズ『リヴァイアサン』などをさくさくと読む。
読んでいるうちに、ニーチェが『善悪の彼岸』や『道徳の系譜』で罵倒のかぎりを尽くしていたのは、この方々に対してであったということがわかった。
イギリス、フランスのプラティックな思想家とニーチェの違いは、「人間は他人の身になって考えることができる」という想像力を前者は「倫理」の基礎づけとし、ニーチェはそのような想像力こそが人間を「畜群」に陥らせるとみなしていたことである。
ふむふむ。
私もよく言われる。
「ウチダ、人の身になって考えて見ろよ」
とか
「ウチダ、人の痛みを知れよ」
とか、ね。
よほど「人の身にならないやつ」「人の痛みに無自覚なやつ」だと思われているのであろう。
けれども、私は事実を指摘された場合は反論しない主義なので、うつむいて黙っている。

しかし、よく考えてみると、「人の身になれる」ということは言われるほどに「よいこと」なのであろうか?
「おまえの身になって考えてみたんだけどさ、ウチダ。ぜったいそれは止めた方がいいって。あとで後悔するって」
というような友情あふれる忠告を私はこれまで何百回となくされたけれど、あいにく一度として耳を貸したことがない。
それは「こういうことを言う人間の想像力の貧しさ」を経験的に知っているからである。
でしょ?
そのように軽々に「ウチダの身になって」もらわれても困る。
私の内面にどのような邪念が渦巻き、悪意が吹き荒れ、「煩悩の犬」がわんわん吠えているのか、この方はご存じなのか?
おそらくはご存じあるまい。
ご存じであったら、決して私の「ために」忠告をしようなどというフレンドリーな気分になることはないはずだからである。
もちろん「抑圧」という便利な仕掛けがあるので、「人に隠そう」と思っている欲望はだいたい表層に露出してしまって、他人に筒抜けになっているということは事実である。
だが、フロイト先生が教えてくださっているように、抑圧されているせいで世間周知になっている欲望というのは、「それを抑圧していること自体に本人が気づいていない欲望」に限られる。
ご本人が意識的にひたかくしにしているものは「隠蔽されている」だけで、「抑圧されている」とはいわれないのである。
ウチダの欲望の過半は「こんなものを世間に見せたら、たいへんなことになる」ので必死で隠蔽している。
「自分はいい人だ」と思っている人の場合は、邪悪な思念は抑圧されて、表層に露出するので、「その身になる」ことは可能であるが、「自分は悪人だ」と思っている人の邪悪な思念は深く「隠蔽」されて、けっして余人に知られることがないのである。
だから、あまり軽々しく「人の身になってみる」というようなことは言わないほうがよろしいのではないかと思うのであるが、「人の身になってみる」想像力を発揮して、「他人にしてほしくないことは、他人にしない」ということを倫理の基礎づけとしようとする方が少なくない。
だが、そのようなものが倫理を基礎づけることができるのだろうか。
ニーチェによれば、感情移入が基礎づけることができるのは「奴隷道徳」だけである。
それは「他人と同じようにふるまい、同じように感じ、同じように思考し、同じように欲望する」ことがニーチェのいう「畜群」(Herde) の基本的なマナーだからである。
全員が全員の「身になって考える」ことができる社会とは、言い換えれば、全員がそれぞれの「同類」になっている社会である。
みんなのっぺり同じような顔の人間がずらずらと並んでいて、おたがいの気持ちが手に取るようにわかる社会。
そこならたしかに感情移入は容易であろう。
だが、それをはたして人間が「倫理的に生きている」状態と呼びうるであろうか?

ニーチェは「奴隷道徳」に対して「貴族道徳」というものを考案してみた。
これは「畜群」や「奴隷」を見ると「吐き気がする」という感覚のあり方を斥力として、人間を向上させようという戦略である。
「げ、あんな連中といっしょにしてほしくないぜ」
という嫌悪感をバネにして人間的成長をはかろうというのである。
論理的には間違っていなかったのであるが、ニーチェが『道徳の系譜』を書いたときに気づいていなかったことがあった。
それは、「畜群」というのは「畜群を見ると吐き気がする」というような「貴族のマネ」も簡単にできるタフな生物だった、ということである。
1世紀後に「オレ、ニーチェ読んで、あのバカども殺さないかんつうことが分かったわけ」とほざく中学生が輩出するとは、かの天才も想像できなかったであろう。
実は大衆はニーチェが思っているより「もっとバカ」だったのである。
ニーチェ以後、「(少数派の)おれたち」は「(多数派の)あいつら」を見ると「吐き気がするぜ」という言い方で人間的向上と社会の浄化をはかる「畜群」多数派が世界各地に集団発生することになった。
その惨憺たる帰結はご存じのとおりだ。
では、いったいどうすればよろしいのか?
それについてはこれから考えるのである。

日が暮れたので三宮にでかける。
本日は、ウッキーとIT秘書イワモトくんのふたりの誕生日の中日なのである。
これまで一年間のお二人の献身的な働きに感謝すべく、「ステーキハウス国分」の神戸牛をごちそうすることになっている。
ビールで乾杯。国分シェフの差し入れの白ワインをいただきつつ、ホタテの鉄板焼きのアントレののち、神戸牛のステーキが出てくる。ここでボルドーの赤にワインを替えて、さくさくと食べ、最後に「ガーリックライス」とおみそ汁とお新香をいただく。
途中から一同無言となり、ときおり「う、うう・・」とか「あ、ああ・・・」とかいううめきだけがテーブルの上を行き交う。
たいへんに美味でありました。
それから河岸を変えて、Re-set へ。
一杯のんでいるところに Guy Martin のフレンチを食べに行ってきた江さんと橘さんが戻ってきて、ひとしきりフランス料理の話をしているところへドクター佐藤が登場して、たちまち「街レヴィ派」総決起集会となる。
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