2月14日

2004-02-14 samedi

バレンタインデーなので、たくさんチョコをいただく(みなさんごちそうさまでした)。
チョコは「もらう人」と「もらわない人」のあいだにクレバスが存在する。
「もらう人」はたくさんもらい、「もらわない人」はあまりもらえない。
この差異はどこから発生するのか。
この行事の趣旨について、勘違いされている男性諸君もおられると思うので、リアルかつクールな人類学的事実を申し上げたいと思う。
「贈与」の儀礼の本旨は「祝」にある。
「祝」と「呪」はご存じのように紙一重のものである。
ちがうのは「祝」は「災いが起こらないように」するための仕掛けであり、「呪」は「災いがおこるように」するための仕掛けであるということである。
いずれも「災い」のコントロールにかかわるという点では変わらない。
ひとに贈り物をするのは「何かが起きる」ことをめざすのではなく、「何も起きない」ことをめざしてそうするのである。
それは神社仏閣にお線香やお灯明をあげたり、お賽銭を投じたりするのと変わらない。
そういうときに合掌しながら諸君が祈願するのは「家内安全」であり「五穀豊穣」であり「学業成就」であるが、これらはいずれも「悪いことが何もおこらなければ達成されるであろうこと」であって、「非常な幸運に恵まれなければ、達成できないこと」ではない。
つまり、「祝」というのは、「よきこと」を呼び寄せるためのものではなく、「ふつうのしあわせ」の実現を阻む「悪しきもの」を隔離するための儀礼なのである。
ものがチョコであろうと花束であろうと鰹節であろうと、祝福的贈与の人類学的理由にかわりはない。
バレンタインデーに寄せられるチョコやケーキは、「道祖神にそなえられているまんじゅう」に類するものであると観じて大過ない。
道祖神はべつにいかなるよきことも人々に積極的にもたらしきたすわけではない。
ただ、「そこにいる」だけの「センチネル」である。
世の人々が「ただ、そこにいて、みんなをじっと見守っているだけ」という「センチネル」の社会的機能をいささか軽視される傾向にあるのは悲しむべきことである。
諸君のうちには「チョコが来ない」ことをお嘆きの方もおられるであろう。
チョコがキミのところにだけ選択的に来ないのは、それはキミがチョコを「女性からの積極的な好意の表現」だと勘違いしているせいである。
「好意の表現」を受け取ったのだから、こちらも「好意を返さねば・・・」と思っているでしょう。(だから「ホワイトデー」などという行事もあとづけで作られたのであるが、むろん、こんなものにはなんの人類学的根拠もない)
そこが間違いなのである。
「義理チョコ」の贈与というのが、この儀礼の本来的意味なのである。
「義理」の本旨は「債務の相殺」にある。
考えてもみたまえ。
道祖神におまんじゅうを供える人間が、道祖神からの「見返り」を期待しているだろうか?
うっかり、道祖神に夜半に訪れてられて「今日はどうもありがとうね。ところで、何かお礼をしたいんだけど、何がいいの?」などと訊ねられたら、諸君は心臓麻痺を起こしてしまうであろう。
というのは、贈り物をしても「何も返ってこない」という事実そのものが、「道祖神が、災厄を未然に防いでくれていること」の何よりの証拠だからである。
だって、そうでしょ?
道祖神へのお供え物は、「悪霊退散」とのトレードオフなんだからさ。
時間の順逆を間違えてはならない。
「まず先に贈り物をした」もののところに「贈り物」は供えられるのである。
自分は何もしないでおいて、「なんで、贈り物がこないんだろう」と嘆いても無理である。
チョコをもらえない青年の勘違いは、「チョコをもらう」ところから交換が始まる、と考えるところにある。
「チョコをもらったら、そのあとどんなふうな好意をもって返そうか」と考えるところがすでに「出遅れている」のである。
そうではない。
交換は「すでに始まっている」のである。
チョコの贈与は「以前キミが贈った好意」に対する「好意の反対給付」なのである。
だから、バレンタインデーのチョコは本質的に「義理チョコ」であり、それが「正しいあり方」であるとウチダは考えるのである。
では、そう言うウチダはひとびとに何を贈っているのか、と反問される方もおありであろう。
だから、さいぜんから申し上げているとおりである。
私は「道祖神のアルカイックな微笑み」をみなさまにお贈りしているのである。
にこ。
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