引越仕事も一段落して、ようやく「ふだんの生活」が戻ってくる。
やれやれ。
11日はたいへんにたくさんの方々にお手伝いにご登場いただいた。
早朝から最後まで引越仕事の全行程を仕切ってくれたイワモト秘書とウッキーにとにかく感謝。
遠く浜松から来てくださった大坪先生、大学院聴講生のみなさん:渡邊さん、ドクター、谷口さん、だいはくりょくくん、長光くん、ミヤタケさん。
合気道会の面々(おいちゃん、クー、森川さん、森さん、白川さん)。
街レヴィ派からご参加のコバヤシさん。
みなさんありがとうございました。おかげで、4時終了予定の引越が2時半に終わりました。
さっそく「謝恩初宴会」が開催される。宴会には飯田先生、鵜野先生も駆けつけてくれる。
新居は、前の業平町の家に比べると「宴会スペース」がぐっと広がった。
買い出しも、同じ建物に芦屋コープがあるので、「地下のワインセラーにワインをとりにゆく」ような気分で買い物ができてたいへん便利である。
私のこれまでの引越人生において、今回がもっとも「駅から近い」住まいである。
なにしろ「駅の向かい」なんだから。これ駅に以上近いところは駅舎しかない。
初日にあまり騒ぎすぎて「こら! いい加減にしろ!」と近隣から怒鳴り込まれるのも困るので、おとなしく10時半に散会。
12日は修論審査。
ことしは副査が一つだけ。
『ディズニー・アニメにおけるヒロイン像の変遷』というテーマである。
テーマそのものは興味深いものなのだが、「うーん、こまったね」という点も散見される。
どこが困るかというと、『映画は死んだ』のまえがきにも書いたことだけれど、映画会社が存在し、映画館が存在し、映画批評が存在し、映画賞が存在し・・・という映画をめぐる「制度」が存在することを「自明の事実」として、そこから出発している点である。
「批評的である」というのは、ひとことでいえば「外に立つ」、ということである。
「学術的である」というのも同じことだ。
私たちの思考や感覚は、私たちがそこに嵌入されているもろもろの社会的・文化的な制度によって規制されている。
いわば、私たちはその制度によって選択的に何かを「見せられ」「聞かされ」「思考させられ」「感じさせられている」。
たとえば、語彙に存在しない概念を私たちは主題的には思考することができない。
同じように、私たちが「これはよいものだ」とか「これは正しい」とか「これには価値がある」というときに、その判定はそのつどすでに、私たちを共軛している「フレームワーク」に準拠している。
批評的であるというのは、自分自身の視野を限定している、この文化的な「遮眼帯」の輪郭や機能を手探りして、「自分は何を見せられ、何から遠ざけられているのか」を知ろうとすることである。
ある映画は「よい映画」であり、ある映画は「よくない映画」であるという判定を私たちはする。
だが、その判定はいかなる根拠によってなされているのか。
個別的な作品の良否の議論より先に、まず「私はいかなる度量衡を用いて、良否の判定をしているのか?」「どうしてまた私はその度量衡には汎通性があると信じ込んでいられるのだろう?」という、自分自身がそこに組み込まれている臆断のパラダイムを問い返すという手続きが必要なのではないか。
もちろん、それは「自分の後頭部を自分の肉眼で見たい」とか、「自分が歩いている姿を上空から俯瞰したい」というのと同じで「むりな望み」なのである。
むりな望みではあるけれど、それを望むか望まないかが、批評的であるかないかのぎりぎりの分岐である。
自分自身をそこに含む風景の全体を眺望すること。
それが学術的であるということ、批評的であるということのウチダ的定義である。
今回読んだ論文は「フェミニズムに対するスタンス」という点で、ディズニーアニメの変遷をとらえている。
この視点は悪くない。
けれども、映画とフェミニズムの関係については、知っておいてほしいことがある。
フェミニズムが過去20年間、ハリウッド映画にとって「検閲的」に機能していること
その結果、「フェミニズム的にオッケーなヒロイン」像があまりに定型化していること(「眉をひそめ、口をへの字にねじまげ、どなりちらして、『自分らしさ』をあらゆる場面で貫徹しようとする」女性)
そして、その定型に観客は「あきあき」し始めていること
「フェミニズムに媚びるポリティカリーにコレクトな映画」がそんなふうにして「フェミニズムの死期をはやめている」こと
『アメリカン・ミソジニー』に書いたことだけれど、アメリカ文化における女性嫌悪というのは根の深いものだ。
それはアメリカ社会構造の深部に、あらゆる制度、あらゆる思考のうちに巣くっている。
「フェミニズムの興隆そのものが、女性嫌悪をドライブさせる」というトリックはある意味ではきわめてアメリカ的なソリューションである。
ハリウッドが乱作している「フェミニスト映画」(アイズナーがプロデュースしているディズニー・アニメはその代表だ)には「女性に対する悪意」が伏流しているということに素朴な観客は誰でも気づく。
不思議なことに、素朴な観客が気づくことを、批評家や学者は指摘しない。
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(2004-02-12 00:00)