2月10日

2004-02-10 mardi

いよいよ引越。
早起きしてばたばたと机の周りの「さしせまった仕事グッズ」だけ片づける。
段ボール5箱になってしまった。
朝飯もそこそこにクロネコヤマト部隊が登場。
このメンバーは前回と同じひとたちである。
前回御影から芦屋に引っ越してきたときのクロネコのみなさんが今回もなぜかごいっしょなのである。
「もう出られるんですか?」
と怪訝な顔をする。
「別に私が引越マニアというんじゃなくて(そうだが)、マンション工事がうるさくて・・・」
と必死に言い訳をする。
9時スタート。
私は台所を片づける。
前回の教訓で、台所は他人に荷造りされると「ゴミ」を梱包されて、引っ越し先まで「ゴミ」を運ぶという経済行為として問題のおおい事態が発生することがわかったので、自分でやる。
さいわい、暮れの大掃除のときに台所はテッテ的に掃除したので、「こ、これはいったい・・・」と原型をとどめぬほどひからびた食品が棚の奥から出てきて呆然、というようなことは起こらない。
合間を縫ってリージョンで鍵をもらい、管理会社に行って駐車場のパスカードと入居のしおりをもらい、市役所に転居届けを出し、郵便局で配達先変更をお願いし、朝日新聞に金を払い、電気とガスと水道を止め、警察署で免許の住所変更届けをし、明後日の修論審査のために修論を読む。
4時に搬出が終了。
がらんと何もない部屋をくるりと回って一礼して退去。
どうもおせわになりました。
1年間たいへん快適に暮らしたけれど、まあしかたがない。

そのまま大学へ。6時からCOLのWGの会議。
前日は自己評価委員会、今日はCOLと自分が招集者である会議が続く。
どこかしら似たような内容の会議なのであたまがこんがらがる。
04年度のCOL(文部科学省はGP「優良事例 (good practice)」という通称を希望しているそうであるが、COL= Center of Learning 教育拠点校)という言い方が定着してしまった。誤解のもとだねこれは)は締め切りが4月ということなので、まるで時間的余裕がない。
04年度は申請を断念しようか、という可能性も検討したが、二度のCOLフォーラムとさまざまな資料を検討した結果、「COLには参加することに意義がある」という絹川委員長の言を信じて、続けることにする。
率直に言って、私はこのプログラムが発足したときに、「これは文部科学省主導による大学の序列化と淘汰加速のための戦略である」と位置づけていた。
そういう定型的な発想しかできないことの不自由さに気づかず、そういうふうに「かんぐってみせる」ことが批評的なポジションであると思い込んでいた。
しかし、じっさいにCOLの選定過程を知り、その採択校の事例を詳細に聞くにつれて、おのれの短見に気づいた。
これは「たいへんまじめなプログラム」だったのである。
危険水域に近づきつつある日本の高等教育を根本的に立て直すために、大学人のあいだで21世紀の大学のヴィジョンについて「新しいコモンセンス」を形成しようという趣旨のものだったのである。
前にも書いたけれど、日本のメディアの教育報道はかなり歪んでいる。
「学校はダメになった」と書くと、なぜか日本人は喜ぶ。
教師も喜ぶし、学生生徒も喜ぶし、親たちも喜ぶし、学校に行っていない人間も喜ぶ。
教師が喜ぶのは「ダメなのはうちだけじゃない」と安心できるからである。
学生生徒が喜ぶのは「ダメなのは私だけじゃないと」と安心できるからである(以下同じ)
日本のメディアの「批評性」と称するものの特徴は「ダメな事例」だけをことあげして、「がんばっている事例」を同一の文脈で取り上げて、その「格差」のよってきたる所以を考究するという姿勢がないことにある。
たとえば、官僚の腐敗や政治家の汚職をあつかうときは、それ「だけ」を扱い、清廉潔白な公人のあることを報道しない。
それを読んだ読者は「日本の役人とか政治家なんつーものは・・・」という「十把一絡げ」的な「批評」に甘んじて、「役人や政治家のなかには、きちんとした人もいる、ダメな公人と立派な公人の『格差』はどこに発生するのか?」というよりプラクティカルで、より生産的な議論にはすすまない。
大学についても同じことが言える。
「日本の大学はダメだ」という報道のオーバードーズは、大学人を「奮起させる」方向よりむしろ「安心」させる方向に作用する。
「どこもダメなら、うちもダメでも、まあいいじゃんか」
というふうに日本人は考えちゃうのである。(心理的安定を得るためにはある意味「すぐれた」民族的資質であるとも思えるが)
少なくとも、私が知る限りの大学人は、高等教育が「ダメ」になっているという事実を痛切に受け止めなくても「いい」という自分への言い訳に「どこもかしこもダメだから」という事実に無意識に依拠してきた。
COLはこの「みんないっしょに滅びましょう」という(ある意味ではなかなか奥行きのある)日本の大学人に蔓延している「気楽な悲観主義」に対して、「そんなに簡単に教育をあきらめちゃって、いいんですか?」と問い返してきたのである。
少なくとも、私にはこの問い返しは「新鮮」であった。
そして、現に「あきらめていない大学」の事例を知るに及んで、私はおのれの短見を恥じたのである。
「あきらめている大学」と「あきらめない大学」の格差はどこから発生するのか?
私たちはその「格差」を乗り越えることができるのか?
できるとすれば、どのようにして?
というような問いを少なくとも1年前の私はほとんど考えていなかった。
そのことひとつを取っても、COLというのはすぐれた教育実践であったと私は思う。
だから、「参加する」ということは、本学の場合はあるいは「採択に落ち続ける」ということを意味するかもしれない(その可能性が高い)。
しかし、それで「よい」としなければならない。
それが本学の教育的取り組みについての「客観的評価」なのであるなら、粛々と受け止めるべきだろう。
「日本じゅう、ぜんぶダメなんだから、うちなんかましなほうだよ」
という私たちのあいだの無根拠な安心をうち砕くためには適正な外部評価に耳を傾けることが必要であるとウチダは思う。

COL・WGは「理系の先生たち」の大活躍で、なんとか04年度は03年度申請よりもずっと「科学的」な書式による申請が果たされそうである。
池見先生、森永先生、西田先生ありがとうございました。
こういう「目的・方法・効果」的なプログラミンに私のような「文系」教員はまったく訓練されていないのである。(ということを学んだのも個人的には収穫のひとつである)
へろへろになって竹園ホテルへ投宿。
日の丸ラーメンを食べに行って、風呂に入るともうまぶたが下がってくる。
ああああ、眠い。
おやすみなさい。明日も引越だ。
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