2月7日

2004-02-07 samedi

寝しなに読んだ村上龍『恋愛の格差』にたいへん印象的なフレーズがあったので、ちょっと長いけれど再録。

わたしは常にマジョリティに対する不安と恐怖を抱いている。自分がマイノリティに属しているという自覚があるわけではないのだが、マジョリティがヒステリー状態に陥ったとき、自分は必ず攻撃されるという確信のようなものがあるからだ。その確信は、わたしが大前提的にマジョリティを嫌っていることに原因がある。(…)
わたしがマジョリティを嫌悪するのは、真の多数派など存在しないのに、ある限定された地域での、あるいは限定された価値観の中でのマジョリティというだけで、危機に陥った多数派は少数派を攻撃することがあるからだ。そしてマイノリティといわれる人々も、その少数派の枠内で、細かなランク付けをして、少数派同士で内部の少数派を攻撃することもある。
忘れることのできない写真がある。それは大戦前のドイツでユダヤ人たちがひざまずいて通りを歯ブラシで磨いているという写真だ。その人物がある宗教に属しているというだけ、その人物の人格や法的地位と関係なく差別するというのはもっとも恥ずべき行為だが、わたしたちは立場が危うくなるとそれを恥だと感じなくなる。
わたしはどんなことがあっても、宗教や信条の違いによって、他人をひざまずかせて通りを磨かせたりしたくない。それはわたしがヒューマニストだからというより、そういったことが合理的ではないというコンセンサスを作っておかないと、いつわたしがひざまずいて通りを磨くことになるかわからないからだ。
わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中に生きている。だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなければならない。繰り返すがそれはヒューマニズムではない。わたしたち自身を救うための合理性なのである。(村上龍『恋愛の格差』、青春出版社、2002年、247-9頁)

村上龍が変わらず一貫して説いているのは、「倫理的に生きることは長い目で見れば経済合理性に合致している」ということである。
これはレヴィ=ストロースの構造人類学の知見と平仄が合っている。
共同的に生きてゆく上でもっとも合理性の高い生き方を私たちの祖先は「倫理」と名づけた。
倫理は合理性の前にあるわけではない。

「倫理」の「倫」とは「相次序し、相対する関係のものをいう。類もその系統の語。全体が一の秩序をなす状態のもの」すなわち「共同体」のことである。(白川静『字通』)

「倫理」とは「共同体の規範」「ひとびとがともに生きるための条理」のことである。
「それはヒューマニズムではない」と村上は書くが、「ことの条理」を「条理」として認知できる生物を「人間」と呼ぶのが本来の語の定義だとすれば、やはり「それはヒューマニズムなのである」。
「倫理」が「共同体にとっての合理性」のことである以上、「合理性と背馳する倫理」というのは、ほんらいはありえないのだと私は思う。

短期的には合理的だが、長期的には合理的でないふるまいというものがある。
あるいは少数の人間だけが行う限り合理的だが、一定数以上が同調すると合理的ではないふるまいというものがある。
たとえば、「他人の生命財産を自由に簒奪してもよい」というルールは、力のあるものにとって短期的には合理的であるが、それが長期にわたって継続すると、最終的には「最強のひとり」にすべての富が集積して、彼以外の全員が死ぬか奴隷になるかして共同体は崩壊する。
子どもを育てることは女性の社会的活動にハンディを負わせる。だから、「私は子どもを産まない」という女性は他の女性よりも高い賃金、高い地位を得る可能性が高い。しかし、女性全員が社会的アチーブメントを求めて子どもを産むのを止めると、「社会」がなくなるので、賃金も地位も空語となる。
ある戦略が「長期的に継続しても合理的かどうか」「一定数以上の個体が採択した場合にも合理的かどうか」については、かならず損益分岐点が存在する。
しかし、それを見切れるのは卓越した知性に限られており、私たちのような凡人にはなかなかむずかしい。
だから、共同体の合理性を配慮して、「倫理」は「長期的に継続した場合」や「一定数以上の個体が採択した場合」についてはベネフィットよりもリスクが高くなるような生存戦略についてはこれをまとめて「非」としたのである。
だから倫理が「非」とするものの中には、「短期的にだけ行われた場合」や「一定数以下の個体しか行わない場合」には、ベネフィットの方が多いような行動も含まれている。
それゆえ、倫理に対する異議申し立ては、すべて「短期的に見た場合」「自分だけがそれをした場合」には合理性にかなっているから、という論拠に基づいてなされている。
「人を殺してどうして悪いんですか」
と訊ねる子どもは、誰かが彼ののど元にナイフを当て、「ねえ、人を殺してどうして悪いんですか」とまわりの人間に訊ねているときにも、自分もその問いに唱和できるかどうかを想像していない。
ユダヤ人を迫害したドイツ人たちは、「ドイツ人だから」という理由で、ひざまずいて通りを歯ブラシで磨かされている自分の姿を想像していない。
倫理的でない人間というのは、「全員が自分みたいな人間ばかりになった社会」の風景を想像できない人間のことである。
私が自分に課している倫理的規範はだからたいへんに簡単なものである。
社会の全員が「私みたいな人間」になっても、なんとか生きていけるような人間になること。
これである。

「ひとに会えばにっこり挨拶する」
「ひととぶつかったら必ず道を譲る」
「ひとの私生活に関心をもたない」
「ひとに何か頼まれたら、とりあえず『オッケー』と答える」
「自分が欲しいものはまずひとにあげる」
「一日の大半は家にこもって黙って本をよんでいるか文字を書いている」
「ときどきひとを招いて宴会をひらく」

ような人間ばかりの世界でなら、私は生きていける。
さあ、みなさん想像してみてください。
この世が「あなたみたいな人間」だけになっても(『マルコビッチの穴』だな、こりゃ)、まだあなたは暮らしていけますか?
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