金原ひとみ『蛇にピアス』を読む。
芥川賞作品を読むのは町田康以来である。
ふだんはほとんど読まない。
芥川賞という文学賞の査定基準が「わからない」からである。
村上春樹も橋本治も高橋源一郎も矢作俊彦も椎名誠も中島らも、およそ現代日本語のあり方を変えるほどの「つよい」文体を持って登場した作家たちを過去30年間ほとんど組織的に排除してきた文学賞に何を期待できるというのか。(村上龍や町田康が受賞したのは例外的なことだ)
とはいえ、ときどき芥川賞作品を読みたくなることもある。
すらすらと40分ほどで読んでしまう。
みじかいのね。
身体改造というきわどい主題のわりには読後感はさわやかである。
21世紀日本の若者文化を後代の民族学者が調べることがあった場合の「民族誌的資料」としては、貴重なインフォーマント情報になるだろう。
小説に求められる歴史的使命のひとつは「後代の民族学者(批評家ではなく)のための格好の民族誌的資料」になりうるということである。
ピアスやタトゥーやスプリットタンのような装飾的身体改造についてはほとんどいかなる「資料」も私たちはもたない(日本人の何人がピアスをしているとか、「若者に人気のあるタトゥーの絵柄トップ10」などというものがかりに調べられたとしても、それが何を意味するのかは分からない)。
でも、その経験を「内側から」生きるような小説を通じてなら、私たちは「それが本人にとって何を意味しているのか」を理解することができる。
それは「陸軍内務班」の陰湿さは『人間の条件』を読むと分かり、「六全協」の衝撃は『されど我らが日々』を読むと分かる、というのと似ている。
分かるのは「軍隊」ではなく「軍隊によって破壊される感受性」であり、日本共産党の歴史ではなく「六全協のもたらした精神的荒廃」であり、そういうものは歴史的資料だけからでは分からない。
『蛇にピアス』から私たちがうかがい知るのは、身体改造に励む人々の内側において「破壊されるもの」は何か、ということである。
当たり前のことのようだが、身体に穴を開け、針を刺し、身体を「貨幣」のように売り買いし、身体を経由して向精神作用のある物質を摂取する人々において集中的に破壊されているのは「身体」である。
この小説の中では「想像力」が絶対的主権者で、「身体」はその絶対的奴僕である。
小説の全編を通じて、身体は最初から最後まで悲鳴を上げ続けており、想像力は哄笑と怒声と泣涕を繰り返している。
人間が通常「身体的不快」と感じるはずのこと(痛み、汗、悪臭、汚物など)を「快楽」に読み替えると世界は「バラ色」になる、という技巧を主人公はどこかで体得した。
理論的にはむずかしい操作ではない。
身体が「不快」と感じるデータを脳が「快感」に読み替えるように「モード」を切り替えるのだ。
このモード切り替えは、身体的に不快な経験を引き受ける以外に生活資を獲得できない「貧しい」若者たちにとってはある種の「福音」である。
そうやって、身体はその生命の最後の一滴まで搾り取られ、脳はそれによって快楽を増大させる。
「殴られても蹴られても夫についてゆく従順な妻」に売春させて、その金で「昼酒を飲んで、パチンコに通っている暴力夫」というのは「だめんず」の定型的な男女関係だが、その構図が一人の人間の中で、「身体」と「脳」の関係として繰り返されていると想像してもらえると、『蛇とピアス』の活写した世界が分かるだろう。
権力による収奪はかつては社会関係として展開したけれど、現代日本ではひとりの人間の内部で展開している。
他者による収奪であれば、それに抗って「革命」を企てるということもありうるけれど、自分で自分を収奪している人はどうすることもできない。
だから、みんな心を入れ替えて、身体をたいせつにしましょう、というメッセージを発信している小説ではないんですけど。
しかし、一読に値するとウチダは思います。オススメ。
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(2004-02-03 00:00)