2月2日

2004-02-02 lundi

大学院の美人聴講生E田くんからメールが届く(「美人聴講生」と聴いて、一瞬「私のこと?」と思ったかもしれないが、君のことではない)
今般の「負け犬」をめぐる当事者からの発言のひとつの代表例としてご紹介しておきたい。

先生こんにちは。
30代、未婚、子ナシのE田です。
現役の負け犬としては、自分のことが書いてあるようなものなので先生の読みとは違うかもしれないんですけど、
先生がおっしゃるように、育児って、それのどこが勝ち?というくらい大変なことだと思うんです。
だから勝ち犬のみなさんが、ユニクロを着て育児に追われ、すておく(『素敵な奥さん』)の特集で見た「ひきにくのおかず1週間」で家計をやりくりしている時に、5万円の靴をポンと買い、1本千円(両手で1万円)のネイルアートを施している負け犬を見るともしかしたら、悲しい気持ちになるかもしれません。
(負け犬の散財には負け犬なりの事情があるんですけどね、ほんとに)
そんな時、「でもあの人たち(負け犬たち)は女の幸せを知らないんだわ、それに比べて私って幸せ(勝ち)」と思って育児に励んでくださるのなら私は喜んで負け犬となりましょう、腹を見せ、きゃいーんと鳴きましょうと思うんですが。
だって子どもを生んで育ててくれるなんて有り難いじゃないですか。
それと、最終回の授業の「文化資本」の件で思ったんですけど、
文化って要するに暇つぶしみたいなものですよね。
食べることに必死な時代って文化はなかなか難しいですし。
これからの文化の担い手として、育児と家事に追われることのない負け犬ってけっこういいと思うんです。
サカジュンも言うように、すでにそういう傾向が・・・
で、負け犬はますます内省的に生き、低方婚の男性からは遠ざかり。
やっぱり再生産は無理ですね・・・失礼しました。

ウチダが「おお」と膝を打ったのは、「負け犬=文化の担い手」というE田くんの着眼点についてである。
なるほど。
そのとおりだ。
そういえば酒井さんも「負け犬」たちがグルメ、海外旅行に始まり、歌舞伎、オペラ、狂言、バレエなどの伝統エンターテインメントから、茶道華道書道香道合気道にいたる無数のお稽古事に励んでいることを指摘されていた。
私はふと「ランティエ」という言葉を思い出した。
rentier とは「(主に国債による)金利生活者」のことである。
ご存じのとおり、ヨーロッパの家は石造りで、人々はそこで祖先から受け継いだ家具什器をそのまま使って暮らしている。
そして、あまり知られていないことであるが、ヨーロッパではデカルトの時代から1914年まで、貨幣価値がほとんど変わらなかった。
ということは、先祖の誰かが小金を貯めて、それでアパルトマンと国債を買って遺産として残すと、相続人は(贅沢さえ言わなければ)生涯無為徒食することができたのである。
そういう人々がフランスだけで何十万人か存在した。
『彼方』のデ・ゼルミーや、『モルグ街の殺人』のオーギュスト・デュパンはこの類である。
仕事をしないでひねもす肘掛け椅子で妄想に耽っているという点ではシャーロック・ホームズだってそうだし、本邦でも探偵は明智小五郎にしても金田一耕助にしても「高等遊民」と相場が決まっている。
なにしろ、彼らは暇である。
しかたがないので、本を読んだり、散歩をしたり、劇場やサロンを訪れたり、哲学や芸術を論じたり、殺人事件の犯人を推理したりして生涯を終えるのである。
もちろん結婚なんかしない。
せいぜい同性の友人とルームシェアするくらいである(ホームズはワトソンくんと、デュパンは「私」と、明智小五郎は小林少年と)
しかるに、このランティエたちこそヨーロッパにおける近代文化の創造者であり、批評者であり、享受者だったのである。
それも当然である。
新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆくとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのような冒険に嬉々としてつきあう人間は、「扶養家族がいない」「定職がない」「好奇心が強い」「教養がある」などの条件をクリアーしなければならない。
「ねえ、来週から北極に犬橇で出かけるんだけど、隊員が一人足りないんだ」
「あ、オレいく」
というようなことがすらっと言える人間はなかなかいない。
ブルジョワジーは金儲けに忙しく、労働者たちはその日暮らしと革命の準備で、そんな「お遊び」につきあっている暇はない。
結局、ヨーロッパ近代における最良の「冒険」的企図と「文化」的な創造を担ったのは、かのランティエたちだったのである。
残念ながら、ヨーロッパ文化の創造的なケルンを構成していたこの遊民たちは1914-18年の第一次世界大戦によって社会階層としては消滅した。
インフレのせいで金利では生活できなくなってしまったからである。
彼らはやむなく「サラリーマン」というものになり、そんなふうにして、世界からホームズもデュパンも明智小五郎も消えてしまったのである。
私はこれをたいへんに惜しいことだと思っている。
哲学的営為とか芸術的創造というのは、単純な話、肘掛け椅子にすわってじっと沈思黙考しても、寝食を忘れてアトリエにこもっていても、誰からも文句をいわれないし飢え死にもしない、というごく物理的な条件を必要とするものである。
営業マンをやりながら哲学論争を展開するとか、トラック運転手をしながら芸術運動を組織するというようなことが不可能なのは、適性の問題もあるが、主として「時間がない」からである。
「ありあまる時間と小金の欠如」というきわめて散文的な理由がそれらの人々に「ランティエ」的生き方を禁じている。
だが、それこそが現代日本の文化的衰退のおおきな原因であることはどなたにもお分かり頂けるであろう。
ところが。
ここに「負け犬」という新しい社会階層が登場したのである。
その表層的なあり方があまりにかつてのランティエと違っているために、私はそれに気づかなかったのであるが、E田さんに指摘されて「はっ」と胸を衝かれた。
「負け犬」は21世紀日本が生み出した新しい「ランティエ」(女性だから「ランティエール」だね)ではないのだろうか。
彼女たちは「パラサイト」であるか一人暮らしか、同性の友人とルームシェアしているか、とにかく「扶養家族」というものに縛られていない。
職業についても男性サラリーマンに比べて、はるかに流動性が高く、「定職」というものに縛られていない。
扶養家族がなく、定職への固着がなく、ある程度の生活原資が確保されていると、人間は必ず「文化的」になる。
「衣食足りて礼節を知る」というが、「時間と小金」があると人間は、学問とか芸術とか冒険とかいうものに惹きつけられてゆくものなのである。
「文化って要するに暇つぶしみたいなもんですよね」というE田くんのことばはみごとに正鵠を射ている。
そうなのだよ。
まず「暇」が必要なのだ。
しかるのちにはじめて、その暇を「つぶす」ために、さまざまな工夫を人間は考え始めるのだ。
日本はこのままでは文化的最貧国に凋落する。
これをおしとどめるのはキミたちしかいない。
「負け犬」諸君、日本の文化的未来はキミたちの双肩が担うのである。
健闘を祈る。
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