2月1日

2004-02-01 dimanche

ある読者からメールを頂いた。
『寝な構』を読書会で使ったら、メンバーが「レヴィ=ストロースが読みたい」と言い出したので、次の読書会は『悲しき熱帯』を読むことになりました、と書いてあった。
つい先日、兄上も「『悲しき熱帯』はいいね、特に最後の方は泣けたよ」と言っておられた。
『悲しき熱帯』が私たちのあいだでブレークしたのは35年くらい前のことである。
室淳介訳の『悲しき南回帰線』がそのころ流布していた訳本で、冒頭の

「旅といい、冒険といい、私の意には添わぬものだ。だが、私はいまそれらについて語ろうとしている」

というフレーズが竹信くんのお気に入りで、彼の感化によって、当時私たちのあいだでそこだけがたいへんに流行した。
麻雀をやりながら

「ポンといいチーといい、私の意には添わぬものだ。だが、私はいまそれをしようとしている・・・紅中、ポン!」

居酒屋で

「タンといいハツといい、私の意には添わぬものだ。だが、私はいまそれらを食そうとしている・・・・おばちゃん、ホッピーお代わり!」

などが代表的な用例であったかに記憶している。
そんなことを思い出していたら、急にレヴィ=ストロースが読みたくなって、『悲しき熱帯』を取り出す。
コーヒーを片手に読み始めたら、レヴィ=ストロースのスパイシーなユーモアについげらげら笑ってしまう。
ヴィシー政府をのがれてニューヨークに向かう難民船がマルティニックについたときの印象をレヴィ=ストロースはこう書く。

「そのもてなしかたというのは、入り江に船が錨をおろすやいなや、一種の脳障害にかかっているとしか思えない無規律な兵士の一群が示してくれたものである。この脳障害は、もし私が、この兵士たちの腹立たしいやり口からのがれるというただそれだけのために、いっさいの知力を使うことに心を奪われていなかったとしたら、民族学者である私の関心を十分にひくに値したであろう。」(『悲しき熱帯』、川田順造訳、中公公論「世界の名著」59,1967年、363頁)

まことにため息をつくほどに、みごとにフランス的な「条件法過去」の構文である。
「この脳障害」というようなネガティヴな含意の語を主語に据え、「私」を目的語に置いた条件法過去の文型につよい好尚を示すのは、フランス的知性だけである。
私が知る限りでは、アナトール・フランスが「こういう文型」が大好きな作家であった。
若い読書家のあいだでは、もうアナトール・フランスという名が口にされることなんかほとんどないだろう。
でも、いいぞ。
フランス語が読める能力が私にもたらした最大の愉悦のひとつはアナトール・フランスのテクストを原語で読む機会に恵まれたことである。(というような文型で書くのね、アナトール・フランスは)
「私は」という主語に取り憑かれた人々(そういえば、これも「子ども」の徴候だった)が読んだらずいぶん違和感を覚えるだろう。
「クール」だ。
ついでにもう一つレヴィ=ストロースの「クール」な文例を出しておこう。
マルティニックへ着いたレヴィ=ストロースは、航海中に彼に好意的なまなざしを向けていたふたりのドイツ人女性が収容所に移送されてしまったのを知って、知人とともに慰問にでかける。

「この二人の婦人は、体を洗えるようになりさえしたら、大急ぎで彼女たちの夫を裏切りたいと思っていることを、航海のあいだ、私たちに印象づけたのである。その意味でも、ル・ラザレへの収容は、私たちの幻滅をいっそう深めた。」

いいなー。
よし、ウチダも今日からこういう文で日記を書くことにしよう。
あ、いけない。すでに「ウチダは」というような凡庸な主語を使ってしまった。
こういうときは、

「レヴィ=ストロースを読んだことは、私のうちに、彼のような文体で書きたいという欲望を目覚めさせた」

というふうに書かないといけないのだ。

「その欲望の昂進がなければ、文例の枯渇が精神の未熟を私自身に暴露することもなかったであろう。」(これは条件法過去でね)

レヴィ=ストロースが一段落したので、レヴィナスの翻訳にとりかかる。
おお、いかなるシンクロニシティであろうか、いきなり『悲しき熱帯』についての言及に遭遇する。
レヴィナス老師が個人名をあげて同時代の思想家を批判することはきわめてまれであり、ほとんど「ない」と言って過言でないのであるが、その例外中の例外がレヴィ=ストロースである。
老師はこう書かれている。

歴史にはユダヤの民の存在を審問するもう一つ別の仕方もあります。
歴史は不可避的に一つの目的に向かって領導されているとするヘーゲル=マルクス主義的な歴史解釈とは別に、歴史はどこにも向かっていないとする歴史解釈がそれです。
彼はあらゆる文明は等価だといいます。
現代の無神論、それは神の否定ではありません。
それは『悲しき熱帯』の絶対的な傍観主義です。
私はこれを現代におけるもっとも無神論的な書物であり、著者自身自分がどこへ向かっているのか分かっていないばかりか、読者にも生きる目的を見失わせる書物だと思います。
『悲しき熱帯』はヘーゲル的、社会学的歴史観以上にユダヤ教にとっては脅威です。(『困難な自由』)

すごいね。
「現代におけるもっとも無神論的な書物」なんて、ヤマちゃんだったら、さっそく単行本の腰巻きに使ってしまいそうなアイ・キャッチングなコピーでる。
ふむふむそうだったのか。
レヴィナス老師が同時代のフランス知識人のなかでその知的影響力がひろまることをいちばん恐れていたのは、バタイユでもサルトルでもデリダでもフーコーでもラカンでもなく、レヴィ=ストロースだったのだ。
考えてみれば、そうだよな。
レヴィ=ストロースの「すべての文明は等価である」という西欧中心主義批判は、まっすぐユダヤ=キリスト教文明の卓越性の「幻想」への批判につながるわけで、「ユダヤ教とギリシャ的知性の卓越性」に依拠するレヴィナス老師がそのような知的壊乱を許容できるはずもないのだ。
しかし、レヴィ=ストロースのひそかな企図が、構造人類学をつうじて「隣人愛」と「他者にさきんじておのれを奉献する主体」を基礎づけることにあったということに、はたして老師は気づかれていたのであろうか。
人間をそのようなものたらしめた「原初の一撃」をレヴィ=ストロースは「私たちが決して触れることのできない、闇の中に消えた起源」に求めている。
それを「神」と呼ばないのは、レヴィ=ストロースの節度であって、それを「無神論」と呼ぶことに私自身はいささかのためらいを覚える。
私の眼にはこの二人の賢者が「人間性」を定義するとき最終的に選ぶことばがそれほど違っているようには思えないのである。

終日しゃかしゃか翻訳をしたので、背中がばりばりに凝ってしまったので、風呂にはいって背中をほぐし、夕食に豚汁を作る。
うまい。
最近、なぜか野菜たっぷりの「汁」系食物をよく作る。
豚汁で満腹したので、寝ころんでチャン・イーモウの『英雄』を見る。

『英雄』(2002, by Zhang Yimou: Let Li, Tony Leung, Maggie Cheung, Zhang Ziyi, Donnie Yen)

映画全体を貫くモチーフは「重力からの解放」。
この映画では「ものが下に落ちる」ということがほとんど強迫的に回避されている。
矢にしても、いくら強弓で引いたって、あれだけの距離だ、どこかで下に向いて落下を始めるはずなのに、ぐいぐい上昇して、そのあとは水平方向に飛んできて、目的地に達しても、しつこく人間や壁に刺さったりして、最後まで地面に落下することを拒んでいる。
ワイヤーワークの剣戟シーンももちろんそうだ。
ドニー・イェンとリー・リンチェイの雨の中の剣劇の場面、マギー・チャンとチャン・ツイイーが枯葉の中でくるくるまわる場面、トニー・レオンとリー・リンチェイが湖の上で飛ぶ場面、どれでも彼らはなんだか「地面に足がつくと負け」のゲームをしているように見える。
あるいは現代中国には「空中に飛び上がって、降りてこない」という図像に何かはげしい固着を感じる歴史的・文化的な理由があるのかもしれない。
「右肩上がりの経済成長」の象徴かもしれないし、「文化大革命の後遺症」かもしれない。
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