1月30日

2004-01-30 vendredi

いま評判の酒井順子『負け犬の遠吠え』を読む。
たいへん面白い。
じつに「クール」である。
「クール」というのは、ウチダ的定義によれば、自分の立ち位置をかなり「上空」から見下ろせる知性のあり方である。
これまで女性の論客には「ホット」な方が多かった。
それは「女であること」の被害者的・被抑圧者的な位置を動かず、そこから発言するという戦略上の要請のしからしむるところであったのだから、しかたがない。
しかたがないけれど、同じ位置にずっと腰を据えて、同じ定型的な言葉づかいでしゃべっていられると、聞く方はだんだん飽きてくる。
フェミニズムはすでにその思想史的使命を終えつつあると私は思うが、それは別にフェミニズムの理論的瑕疵が満天下に明らかになったからでも、フェミニズムの歴史的過誤が異論の余地なく証明されたからでもなく、「そういう言葉づかいで社会と自分の関係を説明するしかた」にみんなが飽きてしまったからである。
気の毒だがそういうものである。
同様に、私の頻用する「大人になれば分かる」とか「経験的にそうなんだから仕方がない」というような語法も、いまは多少の物珍しさもあって通用しているが、いずれ飽きられて弊履のごとく棄てられることはまぬかれない。
そういうものなんだか仕方がない。
文句を言っても始まらない。

ともかく、酒井さんは現代女性を論じる新しい立ち位置を発見した。
それは誰にも肩入れしないし、誰をも仮想敵に想定しないし、自己正当化も(ちょっとはするけれど)控えめな、少し「遠距離」から現代女性をみつめるまなざしである。
このまなざしは「好奇心」にあふれている。
未知の事象を定型に回収して、「しょせんは***にすぎない」というふうに決めつけて終わりにするより、不思議がったり、驚いたり、ああでもないこうでもないと思案したりすることの方が「楽しい」、だから「楽しいことをする」というリラックスした構えが一貫している。
私が感心したのは、「30代、未婚、子ナシ」の「負け犬」に対置するに、「既婚、子アリ」の「勝ち犬」をもってしたことである。
この用語の選択には(本には書かれていないけれど)深い含意がある。
メディアは「負け犬」「勝ち犬」という区別に着目して、「勝ち負け」関係に論点を絞っているが、酒井さんのオリジナリティはここにあえて「犬」という貶下的な名詞を配したことにあるとウチダは思う。
勝とうが負けようが、年齢だとか既婚未婚だとか子どもがいるいないで人間の価値を判定できると思っているひとは、「人間」ではなく「犬」だ、そう酒井さんは言い放っているのである(言ってないけど、私にはそう読めた)。
これは実に過激なご発言である(言ってないけど)。

ここで採用されている「負け犬」と「勝ち犬」の二分法は一時期はやった「勝ち組」と「負け組」の二分法に本質的なところで通じている。
以前、平川くんがきっぱりと言い切っていたように「『勝ち組になりたい』とか『負け組にはなりたくない』というようなワーディングでビジネスを語る人間とはビジネスをやらない。だって使い物にならないから」というのが「大人の常識」というものである。
まして結婚や育児はどう考えても「勝ち負け」という枠組みで論じられるべきものではない。
「結婚したら勝ち」とか「子どもができたら勝ち」というような判定にはどのような実定的根拠もない。
私が知る限り、偕老同穴のちぎりを守って、夫に変わらぬ敬意と愛情を抱いている妻などというものはもうほとんど「絶滅寸前種」であり、既婚者の5%にも満たないであろう。
95%の妻は夫に飽きているか失望しているか憎んでいるか忘れているかのいずれかである。
育児も同様。
妊娠は苦しく、出産は痛く(いずれもしたことがないから想像であるが)、育児は苦役である。
子どもはびいびい泣きわめき、うんこしっこを垂れ流し、ごみを拾い食いし、風呂でおぼれ、どぶにはまり、猫を囓り、縁側から転げ落ちる。
そのようなものに24時間拘束されることのどこが「勝ち」なのか。
育児とは、はっきり言って「エンドレスの不快」である。
育児を「幸福な経験」であると断言できるのは、その方がこの「エンドレスの不快」を「エンドレスの愉悦」と読み替えるという詐術に成功したからであって、育児行為そのもののうちに万人が実感できる「愉悦」などは存在しない。

「勝ち負け」という区分は何の実定的基礎づけもない幻想である。
しかし、実定的基礎づけのない幻想であることは幻想が社会的に機能することを少しも妨げない。
幻想はきちんと幻想を再生産するからである。
この「勝ち負け」幻想は「私よりいい思いをしている人がいる」という幻想を再生産する。
「いい思いをしている人の仲間に私が入れないのは、○○のせいである」(○○には「トラウマ」「権力」「抑圧」「私の真価を理解できない人々」「私に不釣り合いなパートナー」「あふれる知性」「豊かな教養」などなど好きな言葉を入れてよい)
自分の現在の「不幸」を他罰的な文脈で説明してしまう思考、それが「勝ち負け」幻想が再生産し続けるものである。
そして、この「ここより他の場所」「ここより他の時間」に、「ここにいる私とは別の私」があり、そこにたどりつくことを「外部にある何ものか」が妨害しているという話形で自己規定する人々のことを酒井さんはおそらく「犬」と呼んだのである(私ならもう少し控えめに「子ども」と呼ぶが)。
子どもはまだ「人間」ではない。
「人間 (Mensch) になれ」というのは、ビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』で主人公のジャック・レモンの隣人のユダヤ人の医師が、都会的で享楽的な生活のなかでぐずぐずと壊れてゆく主人公に対して告げることばである。
「人間になれ」
『負け犬の遠吠え』が読者に暗に告げているのはそのことばのようにウチダには思えた。
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