1月29日

2004-01-29 jeudi

学歴詐称の古賀代議士がすさまじいバッシングに遭っている。
朝日新聞は朝刊の天声人語でも夕刊のコラムでも社説でも学歴詐称をなじっている。
しかし、そんなにたいしたことなんだろうか?
市民として許せないと青筋立てるほどの大罪なのであろうか?
経歴詐称、とくに学歴詐称というのは、この社会ではほとんど日常的に行われている。
当たり前すぎて、メディアが報じないだけである。

教育機関・資格認定機関に対して学歴を偽ることはできない。企業や官庁の新卒採用の場合でも学歴を偽ることはできない。
しかしその二つ以外のほとんどすべての機会において学歴詐称は可能である。
そして、現に実に多くの人間が学歴を詐称して暮らしている。

日本の大学は入学時の偏差値によって序列化されており、そこで何を学んだかということはまじめには問われない。
だから、私たちの社会では、「東大中退」の人間が、なにげなく「あ、大学はいちおう東大です」というふうに自己紹介することに本人も別に疚しさを感じないし、あとで中退ということが分かっても、それによって社会的評価が一変するということも起こらない。
しかし、中退者が「あ、大学はいちおう東大です」と言明することは、厳密に言えば、学歴詐称である。
「入った大学」と「出た大学」の境界線がこんなふうにグレーであるがゆえに、「受験した大学」や「入学したかった大学」もなんとなく、「あ、いちおうワセダ(を受けました/に入学できるくらいの偏差値はあったんですけど)です・・」というふうにぽろりと口に出る、ということが起こってしまうのである。
そして、「まあ、今日会ってそのまま分かれてしまうゆきずり相手だし、ばれるわけないよな・・・」というようなどうでもいい局面で一度学歴詐称した人間は、あまりの学歴詐称の簡単さに一驚を喫することになる。
「おいおいなんだよ、学歴って言いたい放題なのか?」
そして、これが「癖になる」のである。
コンビニやビデオ屋でバイトするときに、「卒業証明書と成績証明の提出」を求められるようなことはない。社員を途中採用で取る中小企業でも、まず履歴書の記載を裏付ける文書を要求することはない。
学歴詐称が行われても、特段の実害がないからだ。
「あれ、ヤマダくんて、ワセダなの?」
「おう、でも、大学にはぜんぜん行かないでバンドばっかやってたけどな・・」
「へえ、ワセダなんだ。ふうん。頭いいんだ」
「あのさ、エミちゃん、こんどいっしょに飲み行かない?」
的な展開になると「たいへんに困る」というひとはヤマダとエミちゃんの周囲にはとりあえずいない。
エミちゃんがそのうちヤマダを家に連れて行って、母親に
「ね、こちらヤマダくん。ちょっとカルっぽいけど、ワセダなんだよお」
というようなことになるとヤマダももう引っ込みがつかないのであり、場合によってはそのまま結婚式で仲人の「新郎のヤマダくんはワセダ大学を優秀な成績で卒業され・・・」という紹介に頬を赤らめつつ聴き入るというようなことも人生には少なくないのである。
そんなふうにして、
「まあ、入ろうと思えば入れないこともなかった大学なんだから、『入った』といって過言でないよな」
というような言い訳を自分に向けて繰り返しているうちに、まことに不思議なことであるが、本人も自分の嘘を信じ始めてしまうのである。
そんなふうにして学歴詐称してきた人間はこの世に多い。
みなさんが想像している数十倍いるとお考え頂いて大きくは逸すまい。
あなたがつきあっている彼氏がもしあなたを実家の「おかん」に会わせようとせず、「オレのことはボビーって呼んでくれ」というようなことを口走る男であれば、彼が口にする学歴はまず90%の確率で詐称と考えて間違いない。

どうしてこんなに学歴詐称が多いのか。
理由は意外なことに、学歴詐称は「手間さえ惜しまなければ、誰にでも真偽が判定できる」からである。
大学の学生課か教務課に電話をすれば、(面倒がられるであろうが)必ず真偽は判明する。
そしてここに人間の陥りやすい思いこみがあるのだが、そうであるがゆえに「電話一本で調べがつくことについて、嘘をつくはずがない」という推論をしてしまうのである。

そしてもうひとつ。
私たちの社会では、自分の出た大学についてぺらぺらと自慢話をする人間より、自分の出た大学については大学名を言うだけで、そこで何をしたのかについては「いやあ、べつに・・」とその話題を切り上げたがる人間の方に「好感を覚える」傾向がある。
学歴詐称者に共通するのは、そこで過ごした大学生活やそこで得た知識や技能について詳細を語りたがらないということである(当たり前だね)。しかし、これは大学が一流校であればあるほどむしろ「謙遜」の徴として理解される。
「ヤマダってUCLAらしいけど、英語できますって顔してないよね」
「そうそう、このあいだも外人の客来たときも店長におっつけて自分はモップで床掃除してたし」
「ヤマダのそーゆーとこ好きだぜ、オレは」
というふうに逆効果を呼んでしまうのである。

そのようなさまざまな要因の複合効果として、日本社会では非常に多くの男性が、その事実を上司にも同僚にも妻にも子にも知られぬまま、学歴詐称をして暮らしている。
しかし、私には彼らを責めようとは思わない。
「入ろうと思えば入れないこともなかった大学なんだから、『入った』といって過言でないよな」というエクスキュースに私もまたなんとなくうなずいてしまうからである。
たしかにそうだよなと思う。
学歴なんか「その程度のもの」という扱いでよろしいのではないか。
ひとびとは人間ひとりひとりの知見や技量を自力ではかる自信がないから、学歴を参照しようとする。
だが、本当のところを言えば、相手の人品骨柄を鑑定するとき、学歴なんか情報としてほとんど無価値なのである。
だから、学歴なんかどうだっていいじゃないかと私は思う。
朝日新聞の逆上ぶりを見て思うのは、「ああ、この記事を書いているひとたちって、自分の学歴をすごく重く見ているんだろうな」ということである。
この学歴がなかったら、今の地位にはたどりつけなかったと信じているからこそ、他人の学歴詐称を「権利侵害」みたいに感じるんだろうなと思ってしまうのである。

古賀代議士ははやく議員辞職した方がいいと私も思う。
でも、それは「学歴のような貴重な情報を私利私欲で汚した」からではない。
学歴のようなどうでもいい情報を「貴重な情報」だと信じ込んで学歴詐称したからである。これほど識見の低い人間に国政を委ねることに私は不安を覚える。

学歴偏重者と学歴詐称者はいずれも「学歴によって人間は判定される」という信憑において「精神の双生児」である。
そして、私はこの双生児のそっくりな顔つきをみるたび、なんだかげんなりした気分になるのである。
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