1月27日

2004-01-27 mardi

引っ越しが決まると、なんだかこの家が急に「いとおしく」なる。
騒音くらいのことでせっかくなじんだこの場を棄てるというのが、急に「申し訳ない」という気になるのが不思議である。
「ごめんね、君がキライになったわけじゃないんだよ」とフローリングをすりすりする。

午後はレヴィナスの翻訳。
ローゼンツヴァイクについての長い評伝をこりこりと訳す。
20年前には気がつかなかったけれど、レヴィナスという人は「死者に捧げるテクスト」を実にたくさん書いている。「ジャコブ・ゴルダン」もこの「ローゼンツヴァイク」もそうだ。
「全体性」という鍵概念は、この文脈でははっきりと「死者について語ることのできない語法」という定義を与えられている。

「全体性は死にいかなる意味を与えることもない。ひとりひとりはその固有の死を死ぬからだ。死は還元不能である。だから、還元する哲学から経験へ、還元不能なものへ立ち返らなければならない」(『困難な自由』262頁)

レヴィナスが選んだのは、死者「について」ではなく、死者「に代わって/死者のために」語る語法だった。
それをレヴィナスに強いたのはおそらく「生き残ったもの」の疚しさの感覚である。
ある人は死に、ある人は生き残る。その選別の基準を生き残ったものは知らない。
だから生き残ったものは「自分が生き残った理由」を「事後的に」構築してゆかなければならない。
死者にはできなくて、生者だけにできることは論理的には一つしかない。
「死者を弔うこと」である。
それは死を公的に認知したり、世界内部的な「出来事」に登録することではない。
そうではなくて、その死がどのような公的認知にもなじまず、どのような世界内部的な出来事にも同定できない、誰にも代替できず追体験できない唯一無二のものだと証言することである。
これはむずかしい仕事だ。
というのは、「どのような公的認知にもなじまず、どのような世界内部的な出来事にも同定できない、誰にも代替できず追体験できない唯一無二のものだと証言すること」が全体性の内部で「政治的に正しいふるまい」として認知されたとたんに、それはやはり死を既知に還元することになるからである。
『暴力と形而上学』でデリダがレヴィナスを「経験主義者」として論難したのは、このあたりの「ワキの甘さ」を衝いたのかもしれない。
でも、そういうふうにレヴィナスの試みを「既知に還元する」ことでデリダは得たものとは別のものを失ったような気もする。
「死者に代わって/死者のために」証言する人は必ず「受難」するということをレヴィナスはあえて書き落としたからである。
このレヴィナスの考想が『異邦人』でムルソーが母の死について語った言葉とは深いところで通じている。
「死者に代わって/死者のために」証言する人はその「報い」を受ける。
それは死者を襲ったものと同じ「不条理な暴力」をその身に引き受けるというかたちで訪れる。
レヴィナスはその「報い」を「義人の受難」という話形に改鋳することで、『異邦人』とは別の仕方で、なんとしてでも倫理性をこの世界に立ち上げようとしたのである。
なんという論理の隘路を老師はたどったのであろうか。
『困難な自由』の一行一行を訳すたびに、あらためてレヴィナス老師の偉大さに恐懼するウチダなのであった。
私はそんなことをぜんぜん分からないままに「あー、ぜんぜんわっかんねーよ。もうすこしわかるように書いてくんねーかな、このおっさんはよ」と悪態をつきながら20年前にこのテクストを訳していたのである。
お師匠さまー、ごめんなさーい(泣)。
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