1月23日

2004-01-23 vendredi

久しぶりの休日。
ビル・エヴァンスを聞きながら、のんびり朝ご飯を食べてから洗濯。
メール(30通!)にご返事を書いてから、合気道のお稽古にでかける。
ひさしぶりのお稽古なので、たくさん来ている。
身体を精密に使って、技の「冴え」を出すという多田先生の先回の研修会での教えをいろいろと工夫してみる。
剣の術理で体術を説明するということの意味が、稽古のあとにPちゃんと話しているうちに、ふとに腑に落ちる。
剣や杖を使うというのは、便利な道具を手の延長に持つ、ということではない。
剣や杖は「じゃま」なものである。
これは使ってみれば分かる。すごくじゃまくさい。
剣を使うためには、極端に言えば、手の関節を「もう一つ増やす」ような身体の使い方が必要になる。
剣を操るのは、おそらくそのような身体分節の緻密化の、剣が導入になるからではないのか、と考える。
光岡英稔先生が以前「ボクシングというのは拳を握っている分だけ、動きに制約がありますね」と漏らしていたの思い出した。
たしかにそうだ。
拳を握って腕を動かす場合と、指を伸ばして腕を動かす場合では、可動領域も動きの質も変わる。
わずか5センチばかりの長さの指を使うか使わないかという条件づけの違いで、肘も肩も首も背中も腰も、あらゆる部位の分節の仕方が変わる。
拳を握る方が使える関節の数が少なくなり、できる運動の種類が減るのである。
ボクシングの場合は、その分だけ動きの「速さ」や「強さ」という定量的な身体能力の査定が容易になり、だから「試合」や「判定」が成立するのかも知れない。
本田秀伸さんの見せたような「芸術的なディフェンス」がボクシングでは評価の対象にならないのはそのせいだろう。
本田さんはおそらく「ジャッジが見切れない」ような質の動きをしていたのである。
剣や杖を使うというのは、その逆の条件づけである。
使える関節を増やし、できる運動の種類を多くしないと、剣や杖は使えない。
だから「体術は剣の術理である」ということばを、「剣の術理」というものがまずあって、それを体術に「応用する」というふうに理解してはならない。
身体システムを変えないと剣は使えない。だから「剣が使える身体」というのは、体術的に一段階高い身体システムになっているということである。
剣を稽古するのは「剣が使える身体」になることそのものが最終の目的なのではない。
「剣が使える身体」は剣よりさらにもう一段条件づけのきびしい「何か」を使うための稽古の出発点になるからである。
無限に身体を緻密化し、同時に無限に身体の可動領域を拡大してゆくこの双方向のプロセスのうちに、人間存在を位置づけるという点におそらく武道の卓越性は存するのではないか。
というようなことを寒風の中バイクで家に帰る道筋考える。

文化資本について書いたら、若いひとたちからいろいろとメッセージを頂いた。
だいたいどなたも同じご意見で「文化資本の偏在による階層化社会」の到来は好ましくない、個人の努力がそのまま社会的な評価につながるような「民主的な社会」が望ましい、というご意見であった。
うれしいことである。
それで、よろしいのである。
そのようなメッセージを寄せてくれたのはいずれも「教養」においても「学歴」においても「人脈」においてもかなり恵まれた立場にいる若者たちである。
ごらんのとおり、自らが文化資本において優位にありながら(あるいはあるがゆえに)文化資本による社会の階層化に反対する、というところに「文化資本の逆説」は存するのである。
それは美人が「顔がきれいということだけで私を判断してほしくない」と望み、大富豪が「金を欲しがって私の周りに集まってくる人間を見ると反吐が出る」と愚痴るのと構造的に似ている。
文化資本を潤沢に享受している人は、それを独占して、その多寡によって社会を階層化し、文化資本を持たない人間を見下すというようなことを構造的に禁じられている(そういう「さもしいまね」をしたくても「教養が邪魔をする」からである)。
文化資本はそういう意味で両義的なものである。
「社会上層にのしあがるための道具として教養を身につける」というようなふるまいはすでにして「非文化的」である、と私は書いた。
このような発想をする人間は、はじめから教養を「道具」としてしか考えていない。
彼が求めているのは「経済資本」や「権力」や「情報」や、総じて、世界内部的にいますでに「値札がついている」ものであり、文化資本はそれにいたるための技術的迂回にすぎない。
文化的なものそのものに彼は別に愛情も敬意もいだいてはいない。
しかし、そのように「踏み台」として文化資本を利用しようとするものは、決してほんとうに文化的な財を享受することはできないであろうし、文化資本を身体化した人間だけが発することのできる「オーラ」を放つこともないであろう。
そういう人間からは結局「俗物のにおい」しかしないからだ。
「文化資本の偏在によって階層化される社会」というのはだからそれ自体パラドックスなのである。
だって、そうでしょ。
「文化資本の偏在によって階層化される社会」というが出現したとすればそれは、要するに「アリヴィスト」たちが繁昌する社会である。
ところが「権力、財貨、情報にむらがる亡者たち」というものほど「文化」と無縁なものはない。
そこで「文化」と呼ばれて流通する財貨はもう本来的な定義からして「文化的」とは呼びがたいものとなる他ない。
そういうふうにして、「文化資本の偏在によって階層化される社会」もまた、またたくうちに諸行無常盛者必衰の理に呑み込まれてゆくのである・・・
結局、何を資本にしても社会はひとつところにとどまらないという点では変わらないのである。

繰り返し申し上げているとおり、私は社会が階層化されることを望まない。
権力も財貨も名誉も地位も情報も私はべつに欲しくない。
しかし、それはあくまで私の個人的事情であるから、それをみなさんに強要するわけにはゆかない。
「社会が文化資本を基準に階層化されるのなら、それを利用して社会的上昇を果たしたい」というお考えを持つ方には「どうぞ、がんばってね」とは申し上げるほかない。
けれども、正直申し上げて、私はその動機に共感しているわけではない。
私が「がんばってね」と言うのは、その政治的帰結に興味があるからである。
だって、そうでしょ。
文化が「資本」になる聞くと、目端の利いたガキは「おっとこれからは教養で勝負だぜ」と算盤をはじく。「これからは読書量が出世のカギらしい」と聞かされれば、『世界文学全集』の読破を企て、ぐいぐい読み進む。ぐいぐい読み進むうちに、うっかりサドとかニーチェとかバタイユとかを読み出して、気がついたら出世なんかどうでもよくなってしまった・・・というような逆説は文化資本主義ならではの味わいである。
文化資本へのアクセスは、「文化を資本として利用しようとする発想そのもの」を懐疑させる。
必ずそうなる。
そうでなければ、それはそもそも「文化」と呼ぶに値しない代物である。
私が「日本は文化資本の偏在によって階層化されるであろう」というようなアナウンスをするのは、このアナウンスに驚いてひとびとが文化資本の獲得にわれさきに雪崩打てば、(私の提唱する「一億総プチ文化資本家」構想とはそのようなものである)結果的に階層社会の出現を先送りできると信じるからである。
ややこしい戦略で申し訳ない。
若い人にはお分かりになりにくい理路であろうが、世の中そういうものなのである。
長く生きているとみなさんもいずれ分かります。

高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』の「解説」をようやく書き終わり、メールで講談社に送る。
ほっと一息。
寒いのでポトフを作る。
ワインを飲み、ポトフを啜り、チーズを囓る。
暖かい。
コッポラの『地獄の黙示録・完全版』をTSUTAYAから借りてきたので寝ころんで見る。
若き日のマーチン・シーンは、チャリ坊よりずっとかっこいい。
びっくりしたのは、17歳のニキビ面の水兵さん(サングラスかけてストーンズの『サティスファクション』で長い手足をひょろひょろさせて踊っていた子)の歯並びの悪さが気になってじっと見ていたら、どこか見覚えがある。
IMBDで検索したら、やっぱりローレンス・フィッシュバーンだった。
ハリソン・フォードが出ていることは知っていたけれど、モーフィアスも出てたのね。
完全版は25年前の劇場公開版よりずっとストーリーが熟していて、出来がいい。どうして79年にこのヴァージョンを公開しなかったのか理解できない。映画史的な影響も、社会的な影響もまるで違ったものになっていただろうに。
--------