1月22日

2004-01-22 jeudi

朝一で下川先生のお稽古。
お稽古中に「不眠日記」のオガワくんから電話が入り、無事日文研の博士論文口頭試問はパスした由、ヨロコビの声が届く。
オガワくんがこれほど屈託のない「ヨロコビの声」をあげたのは何年ぶりのことか・・・
口頭試問のあとどっと発熱したそうである。
おそらくこれから発熱、下痢、発汗などによって大量の老廃物が出て、そのあと生まれ変わったようなつるつる人間に変身するのであろう。
「不眠日記」も来月からは「小川順子の爆睡日記」にタイトル変更できるかもしれない。
なにはともあれよかった。おめでとう。

その足で梅田阪急へ。昨日「やけ買い」したラコステのシャツのサイズが合わなかったのでサイズ交換をしてもらう。ついでに新年会用に紺足袋と風呂敷を買い、「家具バーゲン」をしていたので、緑のムートン(?)を買う。
リビングの椅子が一つ壊れてしまったので、椅子を買いたかったのであるが、あまり気に入ったのがなかったし、基本的に家具をふやすのは主義に反するので、買わずに帰る。当面は、キャンプ用のデッキチェア(¥5000)で用を弁ずることにする。
家にもどって「東京ファイティングキッズ」の続きを書いているうちに時間となり、寒風の中、三宮にでかける。
NTT出版の三島くんが神戸に来たので、Re-set にご案内する約束をしていたのである。
はらごしらえに元町の「香港飲茶」に行く。
寒い。
レストランの中までしんしんと冷えていて、注文した料理もすぐに冷たくなる。
でも、美味しい。
今日はいちおう「仕事の打ち合わせ」ということなので、すべてNTTの奢りである。先月私がNTTに払った電話代がざっと7000円ほどである(安いなあ)が、その分を二軒で回収することにする。
飲茶を頂きながら、二人で日本の出版事情について悲憤慷慨する。
問題なのは、書き手の側に読者への「愛」と「敬意」が決定的に欠落していることである。
「サルにも分かる・・・」というようなタイトルの入門書は、どれほどわかりやすく書かれていても、その出発点に読者を見下す視線を含んでいる。
読者はそれに敏感に反応して、「やだなー」と思う。
結果的に、「読者はバカなんですから、あいつらにも分かるように、うーんとわかりやすく書いて下さいよ、センセー」というようなノリの本がふえればふえるほど、読者はその本が発する瘴気を感知して、書店から遠ざかり、結果的にますます本離れが進行し、文化資本の偏在が顕在化するのである。
読者を書物に呼び戻そうと思ったら、まず最初に「啓蒙」(「蒙を啓く」とは「ものがみえない人間のまぶたをこじあける」という意味である)という発想を棄てることである。
読者を「蒙昧」と前提するところで、すでにここには敬意のかけらもない。
誰がそのような本を進んで読むだろうか。
必要なのは「愛」と「敬意」である。
読者に対する愛と敬意さえあれば、内容的にどれほど複雑怪奇なものであっても、読者は必ず手に取ってくれて、身銭を切って読み込んでくれる。
私はそう信じている。
読者への愛と敬意がなくなったのはポストモダン以降だね、という話をしてさまざまな固有名詞をあげて、
「あれはバカですよ」
「やっぱり、そうですか。ぼくも前からそうじゃないかなと思っていたんですよ」
「ははは、バカです、あれは」
というような聞き捨てならないことを寒風にまぎれて言い募る。
そのまま Re-set へ。
寒いのでお客さんは私たちのほかに二人だけ。橘さんと三人でしんみりと「文化資本の偏在」について語り合う。
橘さんの世界でも、「まるで話の通じないビジネスマンとの『バカの壁』」がけっこう深刻な問題として前景化しているそうである。
カフェとかレストランとかを経営して、それによって「有名」になったり、「リッチ」になったりして「勝ち組」に登録されることを人生の目的に掲げて恬として恥じない30-40代の人がやたら増えてきたそうである。
お店をやるというのは、そういうことではないのですけどね・・・と橘さんは翳りのある横顔を見せながらグラスをゆっくりと磨いていた。
そこに江さんが登場。NTTのウチダ本は『ミーツ』の「続・街場の現代思想」の単行本化なのである。
両者名刺交換ののち、ビジネストークをまじえつつ、「大阪における都市の祟り」などについて語る。

そういえば、前回のホームページでの文化資本問題についてあちこちから問い合わせがあった。
その中の代表的なご質問と私の回答をここに再録させて頂くことにする。
なお、問い合わせてきた方のプライヴァシーを配慮して、ここでは名前はあえて伏せさせていただき「K錬会のK野くん」とするにとどめておきたい。

1月21日の web 日記を拝読させていただいてちょっとお伺いしたいことができたので、メールを差し上げました。
実は僕は何年も前から、もっと教養を身に付けたいなぁと思っていて、そういう指針の下に日々行動していたのですが、21日の日記を見て「なるほど、そりゃそうだ」と思うと同時に「教養ある階層に入り込んでいくために頑張っていたのは、全部無駄だったのか!?」と気付き、どうすればいいのかわからなくなってしまったのです。
7日の web 日記で、「芸術作品についての鑑識眼が備わっているとか、ニューヨークとパリに別荘があるとか、数カ国語が読めるとか、能楽を嗜んでいるとか、武道の免許皆伝であるとか、そういう子どものころから文化資本を潤沢に享受してきた学生」と「成績以外には取り柄のない学生」に分類されていて、前者のどれにも該当しないしどうも自分は後者っぽいなぁ…と思ったところだけにショックでした。
それ以前にも、なんとなく外国の学生や偉人達の若かった頃と自分を比べてみてうーん、自分には教養が無いし、教養を育てる環境にもいないな…と感じてきたので、教養(=文化資本?)が足りないことは確実なのですが、いったいどうしたらいいんでしょう?
日記には、「教養が無ければ、そのことで自分の階層が決まっていることにそもそも気付かないから大丈夫」と書いてありましたが、「教養が無いことに気付いてしまった人がどうしたらいいのか」については書いていなかったので、ぜひ何かお話してください。

以下はこれに対する私からの回答である。

K野さま
メールありがとうございました。
お正月に多田先生のお宅で会えなかったので、「あれ、K野くんはどうしたの?」と聴いたのですが、みんな「あ、あの人は、あーゆー人ですから」といっておしまいでした。あれでK錬会では「説明」になっているようですね。K野くんのお人柄が偲ばれる逸話でした。
さて、お訊ねの件にお答えします。
そもそも「文化資本」というような操作概念を使ってこの問題を論じているのは、すべて「階層社会」の居心地の悪さに気づいて、この居心地の悪さのよってきたるところを考究しはじめた人々です。
そうですよね?
「潤沢に文化資本を享受している人」は「文化資本」というような概念を用いて自分のあり方を説明することがありません(それは「金持ち」の定義が「金のことを考えずに済む人」であるのと相同的です)。
逆に「まったく文化資本を欠落させている人」は、「『文化資本』て、何? それ、食えるの?」というような反応しかしませんから、彼らにとっても「文化資本」が主題化されることはありません。
つまり、文化資本を云々しているのは、「あ、そうか。私がこの社会になんとなく『入れてもらえない場所』があると感じているのは、文化資本が欠如しているせいなのか」という自己認識に達した人間だけなのです。
ブルジョワジーとプロレタリアートの中間に「プチブル」という階級がありますが、それと同じで、「文化資本の社会的機能」というようなことについてあれこれ考えている人間は(ブルデューも私も)、「プチ文化資本家」と規定するのがよいのではないかと思います。
K野くんも、「私には文化資本が足りないのではないか・・」という懐疑にとらわれた時点で、すでに「プチ文化資本家」の仲間入りです(おめでとう!)
私の長期的な戦略は、このような文化資本論の展開を通じて、「文化資本へのアクセス条件の緩和」「文化資本の獲得への社会的サポートの充実」を通じて、「文化的一億総中流化」を成し遂げることであります。
「一億総プチ文化資本家」です。
これこそが、一国の文化的成熟にとって最良最適の戦略であるとウチダは信じております。
文化資本の偏在による社会の階層化をなんとしても阻止したい、というのが私の願いであり、ぜひ、その微志をご理解いただき、K野くんにもご協力をお願いしたいと思います。
この先どうすればいいか、というお訊ねですが、多田塾は文化資本の「金脈」のような特権的な場ですから、多田先生についてゆき、門人師友と親しむ、ということでとりあえずは問題ないのではないでしょうか?
ではますますのご活躍を祈念いたします。

ご返事を書きながら、どうしてこれまで私が『ため倫』や『寝な構』のような本を書いてきたのか、その理由が分かった(本を書いた後、何年もしてからその本を書いた理由が分かる、ということはあるのだ)。
私は文化資本の偏在による階層社会の出現をなんとしても阻止したい、と念じていたのである。
「一億総プチ文化人」というと聞こえは悪いが、私は結局、私が少年期、青年期を通じて過ごしてきた日本の「一億総中流時代」が社会のあり方としてはけっこう気に入っていたのだ。
機会平等が確保され、上昇志向のある人は好きなだけ上昇していただいて、あまりないひとはそこそこに、というふうにゆるやかに社会が階層化されていて、それぞれの個人的努力とアチーブメントが相関する社会。
私はそういうのが住みやすい社会だと思う。
いま私たちの社会は「住みにくい社会」に向かっている。
「努力しないでも、はじめから勝っている人が『総取り』する」というルールは社会秩序をいったんは紊乱するけれど、最終的には社会を鈍く停滞させ、人間を腐らせるだけである。
学校も家庭もメディアも市場も、そのことに気づいていないで、ひたすらその趨勢に荷担している。
私はそれにたいして「そういうのは、もうやめませんか」と申し上げているのである。
むかしのように、「努力した人間は報われる」というシンプルで民主的なルールに戻しましょう、と申し上げているのである。
親が無学でも、こどもが一生懸命勉強すれば、文化資本を豊かに享受できるようなルールに戻しましょうよ、と申し上げているのである。
そのための戦略が「一億総プチ文化資本家化」戦略である。
それではみなさん、スローガンにご唱和願います。
甦れ! 戦後民主主義! Back to the Golden Fifties!
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