1月21日

2004-01-21 mercredi

「文化資本の偏在による社会の階層化」について昨日書いたが、なかなか容易には理解が得られにくい論件なので、もうすこしていねいに議論してみたい。
「文化資本」という概念をつかって社会理論を構築したのはご存じの通りピエール・ブルデューである。
どうしてフランスで「文化資本」ということばが社会理論の道具として有用であったかというと、それなりの歴史的事情がある。
フランスは「階層社会」だからである。
「階層 (couche)」と「階級 (classe)」は微妙に違う。
「階級」というのはマルクス主義の概念であり、「階級意識」の主体的獲得と同時に歴史的に登場する。
階級意識を持っていないと、社会的な地位がどこにあろうと、その人のふるまいは「階級的」にはならない。
例えば、経済的に収奪される社会の最下層にありながら、ナポレオン三世の独裁を熱狂的に支持したビンボー人は「ルンペン・プロレタリアート」と呼ばれて革命階級には算入されない。
それに対して「階層」というのは、主体的に獲得するものではなく、「気がついたら、身に付いていた文化的な資本」の差によって生じる社会的ヒエラルヒーのことである。
フランスは階級社会ではないけれど、文化資本の差によって超えがたい階層間の「壁」が存在する社会である。
かの地では、学校教育の場で教養の格差が顕在化し、「教養において卓越した社会階層」に(結果的に)政治権力や情報や経済資本が集中し、ヒエラルヒーが再生産され続けている。
ブルデューはそういう差別構造を見て、「結局、ものを言うのは金じゃなくて、教養の差なんだな」ということに思い至ったので、『ディスタンクシオン』(差別化)というようなタイトルの書物を書いたのである(たぶんね)。
文化資本という概念はフランスという特異な階層社会に固有の差別化状況を説明するための操作概念であったので、「一億総中流社会」日本ではそれほど定着しなかった。
しかし、日本もだんだん「フランス化」するんじゃないか、というのが私の予感である。
フランスという国はご存じのかたはすくないだろうが、「非識字率」が人口の16%という国である(日本には「字が読めない人」は人口の1%もいない)
フランスの小学校6年生の35%は「速読では文章の意味が取れない」。つまり、教科書を音読することはできるけれど、「いま呼んだところになんて書いてあったの?」という教師の質問には答えられない。
そういう国だからこそ、「コミュニケーションとは畢竟、『会話』のことである。文字なんか読めんでよろしい」というゆがんだ言語観が発達しているのであるが、それはまた別の話。
ところが、その一方で、フランスは少なくとも1980年代までは世界に冠絶する「文化的情報発信国」であった。
実存主義、構造人類学、社会史、心性史、記号論、象徴価値論、脱構築、ラカン派精神分析・・・など今日英米の大学において教科書的に教えられている人文社会系の学術のほとんどすべてはフランス産である。(もちろん文化資本論もそうだ)
一方に世界に文化的生産物を贈ることのできる社会階層が存在し、他方に文字も読めない社会階層が存在する。
それぞれが「分業」して、住むところも、出入りするところも、食べるものも、着るものも、つきあう人も、話題も、ぜんぜんクロスオーバーせず、「壁」の圧倒的な厚みゆえに、(ジュリアン・ソレル型の野心家以外)「下層」の人には「上層」に上昇しようという意欲さえない、というのが階層社会である。
日本はそういう社会ではなかった。
でもいま、そういう社会になりつつある。
日本が「フランス化している」と言っても、「え、そうなの? まあ、トレビアン」などと喜んでもらっては困る。
経済資本の差ではなく、文化資本の差によって階層化される社会というのは、非常に流動性の低い社会だからである。
そして、過度に流動性の低い社会は私たちにとって住みやすいとは思われないのである。

どうして文化資本主義の社会は流動性がなくなるのか、それについてご説明しよう。
「文化資本」(capital culturel) には、「身体化された文化資本」と「制度化された文化資本」がある。
「身体化された文化資本」とは、家庭環境、地域環境、学校教育をつうじて身に付いた教養、知識、技能、感性のことである。
家の書斎にあった万巻の書物を読破したとか、毎週家族で弦楽四重奏を楽しんだとか、家にしょっちゅう外国から友人が来るので英語フランス語中国語スワヒリ語などを幼児期から聞き覚えてしまったとか、家伝の武芸を仕込まれて十代で免許皆伝を得たとか、家のギャラリーでセザンヌや池大雅をみなれて育ったので「なんでも鑑定眼」が身に付いてしまった、などというのが「家庭環境」を通じて身体化された文化資本である。
「制度化された文化資本」というのは、学歴、資格、人脈のようなもののことである。「身体化している」とまではいえないけれど、かたちを持たず「持ち運び可能」なものであるから、火事になろうと焼けないし、津波が来ようと沈まない。
これがなぜ「文化資本」と呼ばれるのか。
経済学が教える「資本」の定義は「利潤を生み出すもの」である。
だから「貨幣」はそれだけでは「資本」ではない。
当たり前だね。退蔵されている貨幣はいかなる利潤も生み出さない。それは「運用」されなければならない。
産業資本主義の時代においては、資本家は貨幣によって生産手段を手に入れ、労働力の価値と労働生産物の価値とのあいだの差異(剰余価値)を利潤として獲得した。
ポスト産業資本主義の時代では、「新技術や新製品のたえざる開発によって未来の価格体系を先取りすることのできた革新的企業が、それと現在の市場で成立している価格体系との差異を媒介して利潤を生みだし続けている」(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』)
要するにどこかに差異を生み出して、それを媒介にして交換が行われる限り、資本にとってはどんな差異でも差異でありさえすればよいのである。
でも、私たちは「資本」というと「製造機械」とか「先端テクノロジー」のようなものを思い浮かべる。
これはたしかに誰かが占有していれば、そこに利潤を生み続けるであろう。
しかし、機械は壊れるし、火事になれば焼けるし、地震があれば地面に呑み込まれるし、内戦が起きたら棄てて逃げないといけない。
先端テクノロジーが「先端的」である時間はそれほど長くない。いずれ誰かが「もっと先端的なテクノロジー」を開発すれば、ただのゴミとなる。
いずれも安定的に占有するのが困難なものである。
だからこそ、「諸行無常盛者必衰」すべては移ろいゆくのである。
経済資本についてはこれを独占しつづけることが困難なのであることはお分かり頂けるであろう。
しかし、文化資本はそうではない。
文化資本はむしろ不可逆的に、より狭隘な社会集団に排他的に蓄積される傾向にある。
というのは、生産手段である経済資本については「オレにもそれわけてくれよ」と言ってくる人がいるが、文化資本については、「オレにも教養と感受性をくれよ」と望む人はいないからである。
そんなこと言っても無理だからである。
文化資本は分割頒布できないんだから。
それは先程述べたように、「気がついたら、もう身に付いていた」ものであり、「気がついたら、身に付いていなかった」人は、もうどうしようもないのである。
「私は・・・になりたい」というような社会的自覚が生まれてきたときには、「もう文化資本が蓄積されていた人」と「文化資本がゼロだった人」のあいだに乗り越えがたい「壁」が構築されてしまう。
「え、そうなの? わ、たいへん。じゃ、うちの子はアメリカン・スクールに通わせてバイリンガルにして、ピアノのお稽古にいかせて、日舞とバレーと茶の湯と能楽と合気道も習わせることにしましょ。ね、あなたのお小遣い削るわよ。教育投資にあたし命をかけるわ」
勘違いしちゃダメだって、言ってるでしょ。
「文化資本を金で買う」というこの発想そのものが文化資本の価値に対する根本的な無理解を露呈しているんだから。
この人は「要するに金でしょ? 文化資本もってるとお金もちになれるんでしょ? だから先行投資をして文化資本を安いうちに買いだめすればいいんじゃない」と考えている。
でもね、「豊かな文化資本に浴した人」というのは、ひとことでいえば「教養を貨幣よりも当然のように上位に置く感性」の持ち主のことである。
「ほんとうにたいせつなものは金では買えない」という感性が「金で買える」はずがないでしょ?
文化資本について言えることは「それを身につけよう」という発想そのものが(つまり、資本を手にして社会階層を上昇しようという「欲望」そのものが)、(触れるものすべてを黄金に換えるミダス王のように)、触れるものすべてを「非文化的なもの」に変質させてしまうということである。
「文化資本を獲得するために努力する」というみぶりそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では、「文化的プロレタリアート」への墜落を宿命づけるのである。
ひどい話だ。
「努力したら負け」というのが、このゲームのルールなんだから。
「努力しないで、はじめから勝っている人が『総取り』する」というのが文化資本主義社会の原理である。
ひどい話だと私も思う。
しかし、日本は確実にそうなりつつある。
でも、文化資本主義社会にもひとつだけ救いがある。
それは、この社会における「社会的弱者」は自分が「社会的弱者」であるのは主に「金がない」せいであって、「教養がない」せいでそうなっているということには気がつかないでいられるからである(教養がないから)。
とほほ。
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