1月20日

2004-01-20 mardi

大学院最終日。
本学初の「男子聴講生」を受け容れて始まった大学院の演習も本日めでたく千秋楽を打ち上げることとなった。
この授業は掛け値なしに私の教師生活30年の中で「最高に愉しい」経験の一つであった。
それは、単にテーマが面白かったとか、参加者がフレンドリーであったとかいうことにはとどまらない。
いま、このメンバーで、こんなふうな展開でなければ、決して口にされなかったような「ことば」がそこで語られているという、「意味が生成する現場に立ち会っている」実感が私をわくわくさせたのである。
おそらく、同じ実感を多くの受講生が私といっしょに感じてくれたと思う。
最後の時間は「日本社会は文化資本の偏在によって階層化するか?」というテーマについて基調報告を私がさせていただいて、それからフリートークとなった。
最後の回ということで、渡邊さん、スーさん、江さん、ドクター佐藤、ナガミツくん、ミヤタケ、影浦くん、マツムラさん、岸さんら、これまでセッションをにぎわしてくれた論客たちが全員ひとこと(じゃないひともいたが)コメントをしてくれた。
それを聞きながら感じたのは、去年の春、演習の最初のころは、みんなある程度気負って「ひとこと申し上げますが・・」と肩肘はった語り方だったのが、1年経ったら、話し方がずいぶん変わったなあ、ということである。
みんな話し方が「やさしくなった」。
聴き方が「深くなった」。
自分の中にあらかじめストックされている「意見」をみんなに理解してもらうことよりも、みんなの注意深い聴き取りを「推力」にして、「自分の言いたいこと」を語りつつ発見するという投企的なふるまいに興味がしだいに移っていったように思える。
言い換えれば、みんなのコミュニケーションのみぶりが「外側に開く」というより、「内側に切り込む」ように変化してきたのである。
内省の機会を得るために発言を求めるというのは、「ディベート」とは無縁のふるまいである。しかし、コミュニケーションが生成の出来事そのものであるためには、「かねて用意のストックフレーズを繰り返す」のではなく、「いま、ここで、この聴き手を得なければ決して語られなかったはずのことばを語る」ことが目指されなければならない。
そのようなコミュニケーションを成り立たせるためには、語り手にはことばの力が、聴き手には笑みをともなった忍耐が必要だ。
わずか30週ほどの演習がこれだけ豊かなコミュニケーションの場となりえたのは、ひとえに受講したみなさんのスマートな知性と節度のおかげである。
みなさんどうもありがとう。来年は「アメリカ研究」です。みんな、また聴講に来てくださいね(涙)
この演習の「打ち上げ」はそのうちウチダ家でやります。例によって「一品持ち寄り宴会」です。
日程は浜松から来る鈴木さんのご都合に合わせます。日時が決まったらこのホームページで告知しますので、定期的にチェックを忘れずにね!。
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