委員会がひとつと教授会とまたそのあとプチ委員会。
うー、いそがしいぜ。
教授会では、来年前期のウチダの二年生の文献ゼミが定員に満たないので、そこに「すべての志望先を落ちた学生」を収容してはいかがかという怖ろしい「報告」がなされたので、「そ、それだけはごかんべん」と嘆願する。
私のゼミはわりと集客力の高いゼミなのであるが、二年生に限っては「原典講読」という古典的なゼミを開いた。
「日本文学作品(夏目漱石、太宰治、村上春樹、村上龍など)のフランス語訳を読んで、原典と仏訳の『ずれ』と誤訳をチェックしながら、日仏の比較文化的差異を検証する」というシラバスを書いたのであるが、学生さんたちは外国語があまりお好きでないらしく、「外国語文献の講読」を掲げたゼミはウチダのところだけでなく、ことごとく定員割れを来したのである。
フランス語の原典講読ゼミに「フランス語未修」の学生を配属されては、その学生さんも身の置き所がないだろうし、こちらも教えようようがない。
懇願の甲斐あって、今回に限り、志望した学生だけを受けれればよろしいというお裁きをしていただく。
ほっ。
しかし、もうこういう古典的なスタイルの「原書講読」で、言葉をひとつひとつピンセットでつまんでためつすがめつ賞味するといった風情の勉強は学生のみなさんのお気に召さないようである。
楽しいんだけどね。すごく。
専攻ゼミでは「好きなことをやってよろしい」ということで、学生諸君に好き放題暴走してもらっている。
それはそれでものすごく楽しいのであるが、やっぱり一つくらいは「こりこりテクストを読む」というゼミも持って、そういう勉強のしかたのなんともいえない「はんなりとした愉しさ」を学生諸君にも経験してもらいたいのであるが、むずかしいんだね、そのへんの呼吸をご理解いただくのは・・・
教授会の後半は「協議」。
自己評価委員会として各学科の委員にお願いした「理事会改革」「契約教員制度」についての「ご意見拝聴」の時間である。
当然のことながら、「いったいいかなる資格によって自己評価委員会がそのような議題を発議するのであるか」という質問がある。
正直に申し上げると、そんな資格は自己評価委員会には「ない」のである。
自己評価委員会は大学(法人組織も含む)のさまざまな問題点、改善点を「指摘」し、それについて「みなさんなんとかしたほうがいいですぜ」ということをご忠告申し上げる「ご忠告セクション」である。
議決権も執行権も何もないし、もちろん職員も予算もついていない。
「ご忠告」をするに際して情報収拾をまめにやるし、委員のメンバーが大学教職員だけでなく法人職員も含んでいるので、いろいろな部署の現状が報告される。
であるから、「ほかの大学はこんなことをしているみたいです」とか「文部科学省はこんなことを考えているみたいです」とか「理事会はこんなことを計画しているみたいです」という情報が何となく自己評価委員会には集まってくる。
そのような情報を開示して、「というわけですから、いかがです、なんとかしちゃ」ということをご発議させて頂くこともあるのである。
いわば、「好意」でやっているわけである。
とはいえ、「好意に基づく苦言」であれ、「苦言」であるには変わらず、「苦言」を呈されると、どなたも「いったい、何の資格があって、高みからものを言うんだい」というご不満がでるのは人情のしからしむるところである。
それはもっともである。
しかし、考えてもいただきたい。
理事会の改革についてのご提言などということは、当然ながら学内の正規の機関で発議することのできない種類の議案である。
なにしろ理事会はすべての正規の学内機関の最上位に位置する機関なんだから。
となれば、「いかなる問題についても、『これは問題だ』と思ったら、『これは問題ですぜ』と言うことを職務とする」自己評価委員会が「火中の栗を拾う」ほかないではないか。
自己評価委員会はその趣旨からして「火中の栗を拾い」「矢面に立ち」「憎まれ役を買って出る」ための委員会である。
だからこそ、「火中の栗を拾うのが趣味」とみなされているウチダのような人間がその委員に選出されたりするのである。
私がなりたがってなって職務ではない。(四年もやるんだよ、とほほ)
ともあれ、そういうわけで「なんとかしちゃ、いかがですか」ということをご提言させて頂く。
別に教授会でわしらの言うとおりに機関決定せよとか、そういうことを申し上げているのではない。
「みなさん、よく考えてね」と申し上げているだけである。
理事会は理事会で好きにやっていただいて結構、それぞれの学部学科はそれぞれのセクションでなんでも決めて結構、文部科学省にどう思われようと、大学基準教会にどう査定されようと結構、レッセフェールでいこうよ、ということであれば、そもそも自己点検、自己評価活動などというものはもとより不要のものである。
それでみなさんがハッピーであるなら、私も文句はない。
問題は、それではわれわれの先行きの雇用確保に不安がある、ということだけである。
契約教員制度についても、どういうふうにすればいいのか私に名案があるわけではない。
全国の大学でどんどん導入されているから、いずれそれが理事会の議事日程にのぼる可能性は高い。
人件費の抑制が前提条件としてあり、マーケットの劇的シュリンクがあり、その中で教育水準を高めに維持するための、ひとつのオプションとして契約教員制度は検討されてよいと私も思う。
ただ、その制度が出来上がる前に、みんなでよく考える時間を持つ方がいいと思う。
このままでは、ある日「契約教員制度についての規定が理事会で決定されました。導入されるかどうかは、それぞれの学部学科にお任せします」という一片の通達がトップダウンでおりてくる可能性がないとはいえない。
規定は作りました。適用するかどうかは教授会にお任せしますというかたちで規定をおろしてきた場合、手続き的には瑕疵がない。
そのときに「じゃ、うちはやります」「じゃ、うちも・・・」というふうにあちこちの学部学科が動き出して、「既成事実」に流されてゆくより先に、「そもそも、どういうふうな制度であれば、ベターなのか」について議論し、その議論の結果えられた学内合意を規定の策定に先立って理事会に伝えてゆくことは無駄ではないとウチダは思う。
私は理事会と敵対したいわけではない。
むしろ仲良く手を取って大学の繁栄のために協力しあいたいと心底思っている。
しかし、理事会はこのところ重大な決定について、事前に学内における受け容れ基盤のリサーチというか瀬踏みというか「根回し」というか、そういう「前・民主主義的」なめんどうな手順をパスして、「どん」とおろしてくる傾向にある。
それではなかなか所期の効果が得られない。
ウチダはそれを惜しむのである。
対話の場を確保し、その中で繰り返し提案を検証し、議論し、差し戻し、練り上げてゆくプロセスがたいせつであると思う。
たいせつなことは、「尻に火がついてから」ではなく、まだ時間が残されているときに、まだ頭がクールに働くときに、落ち着いた議論をすることである。
多少時間はかかるけれど、その方が最終的には「話がはやい」とウチダは経験的に信じている。
愚痴が多くてすまない。
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(2004-01-16 00:00)