角川書店の編集のダテさんが芦屋まで来られた。
「カドカワのヤマちゃん」が別会社へ去ることになったので、その「引き継ぎ」のご挨拶である。
ヤマちゃんが何かに付け「20代のフリーター青年たちの困惑」に同情的であるので、「自分は高給取りのエリート編集者なのに、貧しい同世代を気遣ってるんだ(けっこういいやつだぜ)」と思っていたら、彼もまた非正規雇用のフリーター編集者だったのである(そういうことははやく言いたまえ)。
ま、それはさておき。
ダテさんと「おばさんの恐怖」について語り合う。
名越先生によれば、精神的にトラブルをかかえてくる思春期の患者の過半は、母親によって「病気にさせられている」そうである。
クライアント自身の何倍も「病んでいる」母親が娘を「この子、変なんです」とクリニックにひっぱってくる。
「変なのは、あんただ!」
と叫びたいのをぐっとこらえて、不幸な少年少女の救済に今日も名越先生は東奔西走せられているはずであるが、ここで問題になったのは、「どうして、母親は病んでいるのに発症しないか」ということである。
名越先生は考察を重ねた末に、「いわゆるおばちゃん」たちに共通するのは「情緒が未発達」ということを発見された。
「がはは」とばか笑いする「大阪のおばちゃん」たちは、ものごとに対してきわめて「断定的」であり、あらゆる「未知のことがら」を「慣れ親しんだ既知」に還元し、状況の変化に動じることが少ない。
これは生存戦略としては決して間違っていない。
しかし、「いかなる未知の状況に遭遇しても、驚かない」という「おばちゃん」の強さは、その裏でその病的な「情報遮断」に担保されている。
「都合の悪いことは耳に入らない」「見たくないものは目に入らない」「理解できないものはこの世に存在させない」という意図的な視野狭窄、感覚遮断によって、彼女たちの精神の安定は保たれている。
情緒というのは、微妙な感覚入力の変化に応じて、そのつど繊細に心身の反応を起こす能力のことである。
情緒の発達というのは、「脳のしわがふえる」とか「語彙がふえる」とかいうのと同じで、「表情の種類がふえる」というかたちで確認される。
私たちが「あいまいな顔」「かたづかない顔」「とまどった顔」をするのは、「今まさに、前代未聞の『情緒』があらたに分節され析出されようとしていること」の徴候なのである。
表情の多様性(あるいは発声の多様性)は、そのまま社会関係の多様性、コミュニケーションマナーの多様性、「他者性にたいする開放度の高さ」にリンクしている。
自閉的な精神疾患(とくに統合失調症の)きわだった特徴は「表情の少なさ」である。
しかるに、「おばちゃん」たちはなかなかカラフルな表情をしており、けたたましい音声を発しているように思えるが、注意深く聴くと、その「種類」が非常に少ないことが分かる。
名越先生はこれをして「情緒未発達」の徴候と診断されたのである。
「情緒」というのは思春期において(それを語る語彙と同時に)劇的に開花するものであり、それ以前の幼児には、(そもそも多様な社会的関係を展開する必要がないから)とりあえず不要のものである。
喜怒哀楽の四つの表情くらいで幼児はその用を便ずることができる。
表情の少ない「おばちゃん」は実は「幼児」なのである。
幼児のまま、思春期に情緒の発達を経験しないまま、学校に進み、恋愛をし、仕事に就き、結婚をし、子どもを産んでしまった人たちが「おばちゃん」なのである。
その「ゆるんだ」的外見に騙されて、私たちは彼女たちの鈍感さや無神経さを「加齢によるもの」と考えがちであるが、それは話が逆で、じつは、あの方々はぐんぐん「幼児化」されているのである。
というのは、身体的な加齢とともに、この「おばちゃん」たちは「若返り」をくわだてるからである。
「おばちゃん」たちの「若返り」戦略はほとんど例外なしに「欲望をさらにむき出しにする」「好き嫌いをきっぱりと表現する」「より利己的にふるまう」「節度をなくす」といった表現をとる。
「恥じらう」とか「言葉につまる」とか「つい気後れする」とか「遠慮がちになる」といったしかたで「若返り」をはかっている「おばちゃん」をウチダは寡聞にして見たことがない。
思い出せばどなたもお分かりだろうが、「若い」時期の特徴は、「心と体のバランスが取れず」「他人のちょっとした言葉の端に動揺してしまい」「季節の変化につい涙する」といった「情緒の富裕化プロセス」であり、「自分でも自分がどうなっているのか、どうしたいのか、よく分からない状態」のことである。
「もうあたし、誰にも遠慮しない。生きたいように生きるのよ、おほほほ」などという「若さ」は存在しない。
それは「若い」ではなく、「幼い」というのである。
だが、思春期を知らない「おばちゃん」たちは、「若返り」というとき、「幼児化」以外の選択肢を想起することができないのである。
「おばちゃん」の危険性は「若いということには価値がある」というメディアのアオリにのせられて、「成熟」ではなく「幼児退行」の道を全力で驀進していることにご自身がまったく気づいていないということに存する。
この深刻な事態について、警鐘を鳴らすひともまたほとんど存在しない。
ご存じのとおり、日本のフェミニストたちはこの「おばちゃん」たちに「よりエゴイスティックに」生きることをひたすら勧奨してきた。
母として、妻として、娘として、その「分をわきまえて」そのつどの表情や発声を換え、多様な社会関係に臨機応変に対応することを「父権制との結託」と一刀両断し、あらゆる場面で「私は欲望する」と自己主張し続ける人間になることを美徳とされてきた。
そのような自己主張は人間を成熟させる方向にほとんど効果がないということについての反省の弁を私は誰からも聞いたことがない。
ともあれ、「加齢によって、いっそう幼児退行が進んだこのおばちゃん」たちがちょうど思春期の少年少女の母親の年齢に当たる。
独善的で、他罰的で、利己的で、情緒未発達で、それでいて(というか、それゆえに)家庭内において独裁的な権力を行使しているこの「おばちゃん」によって「教育」された子どもたちがどうなるか、想像するまでもない。
今、この子どもたちの世代が「病んでいる」。
名越先生はTVのトーク番組に出てくる十代の少年少女をみていると怖くなるそうである。
彼らの平板な発声法、変化のない表情、自説に対する異常な固執、他人の意見に対する「それはもうわかっているんだよ」といわんばかりの作り笑い・・これらは二十年前であれば十分に「精神病の初期症状」と診断される徴候だそうである。
TV局の基準からして、「きっぱりとした意見を持つ、自己表現力にすぐれた子ども」がすでに専門家の診断によれば「病人」なのである。
まことに怖ろしい時代になったものである。
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(2004-01-15 00:00)