1月13日

2004-01-13 mardi

大学が始まる(でも、すぐ終わる)。
2週間授業があって、そのあいだに卒論を読んで、それから期末試験。
採点をしてレポートを読んでいるうちに入試が始まる。
今年の入試はどうなるのであろうか。
まったく予断を許さない形勢である。
私は「このままでは本学は危機的状況に至るであろう」ということをつねづね申し上げている。
私はかなり冷静に状況判断をしているつもりであるが、それでも困ったことがある。
それは、おのれの予見の正しさを論証するために、いつしか「危機の到来」を無意識的に望むようになっているということである。
当然といえば当然である。
私の状況判断がたいへん適切なものであったことを証明する最良の方法は、「現実に危機が到来して、大学ががたがたになること」だからである。
私自身の「正しい状況判断をする人間であると思われたい」という欲望は、いつしか、いくつかのオプションのうち「本学にできるだけ志願者が集まらないような」結果が出るようなものを選択するように私を導きかねない。
「狼がきたぞ!」と叫ぶ「狼少年」が、誰にも相手にされないうちに、いつのまにか「狼」が襲来しやすいような条件づくりに精を出すようになるように。
人間というのは、そういう「哀しい生き物」である。
困ったものだが、そのことを認めよう。
というわけで、私は本学の本年度入試において、志願者が「殺到」して、教職員が「ほっと一安心」して、機構改革制度改革が停止して、「なんだ、いままでのやり方でいいんじゃないか」という現状肯定ムードが蔓延することと、志願者が「激減」して、全員パニックとなり、大学が生き延びるためになりふりかまわず変身する戦略を選び取ることと「どちらをあなたは望んでいるか」と問われると、正直なところ、返答に窮してしまうのである。

13日の大学院はナガミツくん担当の「外国人労働者」。
さすが社会学徒だけあって、よく資料に当たって、手堅い発表であった(前回、マツムラくんにびしっとつっこまれて壇上で絶句したときに比べると隔日の感がある。ナガミツくんもこの一年で立派に成長を遂げたのである)。
ウチダは外国人労働者問題については一家言あり、それを述べさせて頂いた。
もちろん、こういうリスキーな論件については、こんなところに私見をうかつに書くわけにはゆかない。
キーボードを叩けば何でもインターネットで読めると思ってはいけません。
身銭を切らないと参加できないコミュニケーションの場、その場にいかないと聞けない話というのは厳然と存在するのである。

授業のあとはお楽しみ、名越先生との「14歳を持つ親のために」対談。
森ノ宮のクリニックまで先生をお訪ねする。
すでに新潮社の三重さん、足立さん、お二人の編集者がみえている。
さっそくワインをいただきながらトークに突入。
ふたりで3時間、話しに話す。
「怖い話」をいろいろお聞きする。
どういうふうに怖いかは新潮新書が出るのを待ってね。

その中で「分をわきまえる」ということが死語になったね、という話題が出る。
「分をわきまえる」「身の程を知る」というのは、私たちが子どもの頃までは年長者の口からよくきいた言葉である。
このあいだ『父ありき』を見ていたら、父(笠智衆)が息子(佐野周二)にそう説教していた。
名言なので、再録する。

「どこでどんな仕事だっていい。いったん与えられた以上は、それを天職だと思わにゃいかん。不自由は言えん。
人間にはみな分がある。その分は誰だって守らにゃいかん。どこまでも尽くさにゃいかん。私情は許されんのだ。
やれるだけやんなさい。どこまでもやり遂げなさい。それでこそ分は守れる。
それは仕事だ。つらいこともある。
一苦一楽あり、錬磨し、錬極まって福をなすものはその福をはじめて久しだ。
つらいような仕事でなければやりがいはないぞ。それをやりとげてこそ、『その福久し』だ。
わがままはいかん。我を捨てにゃいかん。そんなのんきな気持ちでは仕事なんかできないよ。」

いまどきこんな説教をしたてくれる年長者はもうどこにもいない。
それを私は悲しむべきことだと思う。
私たちの周りには「分をわきまえる」ことのたいせつさを知らない人々ばかりになってしまった。
彼らは「ここではないどこか」に「自分にとって最適の仕事」が待っていると信じて転職を繰り返し、「このひとではない誰か」が「自分にとって究極のパートナー」だと信じて恋愛を繰り返し、「これではないなにか」が「いつか自分の欲望のすべてを満たす」と信じて「モノ」を買っては棄てる。
政治家も財界人もメディアもイデオローグもみんなが「自由に生き、我を張り、私情を全領域に貫徹し、つらい仕事からすぐ逃げ出すこと」を支援している。
もっと欲望を持て、もっと買え、もっと飽きろ、もっと棄てろ、もっと壊せ・・・と彼らは唱和する。
「分を知る」ことは、覇気も野心も欲望も向上心も棄てることであり、人間の尊厳を踏みにじることであり、社会関係の現状を肯定する退嬰主義に他ならないのである。
だが、この「身の程をわきまえるな」という命令は誰でもない資本主義の要請である。
そのことは誰も口を噤んで言わない。

「分をわきまえる」というのは、資本主義の暴走に対して、「ちょっと待って」と告げることであり、決して自己限定することでも、自己卑下することでもない。
それは、自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つことである。
社会の成員のひとりひとりがおのれの「分を知り」、自分に与えられた仕事に対して「選ばれてある」という責務の感覚を持っている社会は、たしかに大量生産、大量消費、大量廃棄という「資本主義の夢の国」にはらないだろう。
だが、そこに住む人々に、ささやかだが確実な幸福を約束してくれる。
そのことの大切さをアナウンスする人はもうどこにもいない。

ミネソタのヤベッチからメールが届く。
新年から連載の「ミネソタ日記」第一弾である。
矢部くんは、英文の卒業生で、合気道部の先々代の主将。かなぴょん、くー、おいちゃんらと「合気道部第三期黄金時代」を担った逸材である。今般思うところあって、「武者修行」の旅にアメリカ中西部へ出かけたのである。
ヤベッチの健筆に期待。
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