1月13日

2004-01-13 mardi

締め切り直前となって、卒論がどかどか送られてくる。
内田ゼミでは、教員の最終チェックを受けずに無断で卒論を事務室に提出した学生は自動的に「落第」というきびしいルールを施行しているので、駆け込みで三日前あたりにどかどか来るのである。
こまったものである。
残り二日では「ここダメだから、ここを書き直し、ここは全部やり直し」とかいうきついことを申し上げられない。
一月ほどまえからドラフトをチェックしている学生のものはかなり完成度が上がったが、土壇場で来たものは、もう手の着けようがない。
みんな文章力は高いので、そこそこ読ませる。
ワープロで書いているから誤字脱字の類はほとんどない。
そういう点では、むかしの論文よりあるいは出来がよいのであるが、相変わらずの問題点が残る。
それは引用出典を示さないということである。
これについてはゼミで口が酸っぱくなるほど教えているはずなのであるが、今回も引用出典を一つも書いていない論文がいくつも出された。
なぜ、学術論文においては引用出典を明記しなければならないのか。
この場を借りてもう一度申し上げておく。

自然科学の論文の場合、「気がついたら、こんな結果がでてました」というような論文は誰も相手にしてくれない。
どういうデータを取って、どういう実験をしたのかが明記されなければ、話にならない。
それは「同一条件で、同一の実験をすれば、同一の結果が得られる」はずである、ということが学術性の前提になっているからである。
学術性を担保するのは「追試可能性」である。
追試可能性が保証されている情報だけが「学術情報」と認定されるのである。

たしかに、社会科学や人文科学では自然科学と同じように「同一の実験」をするということはむずかしい。
しかし、できる限り「追試可能性」が確保されねばならないということは変わらない。
「私と同じ道筋をたどってくれば、きっと私と同じ結論になると思いますよ」
というのが人文科学におけるぎりぎりの「追試可能性」のあり方である。
そのためには「私のたどった道筋」をできうる限り明らかにすることが必要である。
そのための道しるべが「依拠した学術データ」なのである。
引用したデータを明記することによって、私たちはいわば「宝島への地図」を作って残すのである。
それを見て、あとから続く航海者もまた同じ「宝島」にたどりつけるように配慮するのである。
その根本にあるのは、「学術情報とは、後続世代への贈り物である」という考え方である。

世の中には、あとから続く研究者が、自分と同じ理路をたどることができないように、学術情報へのアクセスを妨害するようなタイプの学者もいないことはない。
こういう学者は「知」というものが「贈ることによってしか実りをもたらさない」という根本のところが分かっていない。
彼にとって、「知」というのは、「定期預金」とか「国債」のような、彼だけに占有的な利益をもたらすような退蔵可能な「財」として観念されているのであろう。
引用出典を示さないというのは、それと同じ理由で、「知的に非礼」なことである。

読者が自分と同じ理路をできるだけ快適にたどることができるように配慮すること。
それが論文を書くときのマナーのすべてである。
誤字や脱字をしないことも、適切な比喩を用いることも、段階を追って論理を進めてゆくことも、すべて「リーダー・フレンドリー」であるためのマナーである。
その中のもっともたいせつな配慮の一つが「引用出典を明記すること」なのである。
なぜか。
論文を書くのは「贈り物をすること」である。
私たちが贈り物をするときと同じように、重要なのは「私が何を贈りたいか」ではなく、「人は何を贈られたいか」を考えることである。
そんなことはどなたにも分かっているはずである。
その原理さえ分かっていれば、学術論文をどう書けばいいかということは、教えられなくても分かる。
私たちが贈り物をもらうとき、どんなものをもらったら嬉しいかを想像すればすむことだ。
高いものであれば嬉しいのか? 手に入れるのが困難なものであればうれしいのか?
違うよね。
贈る人が、その品物を選ぶために、長い時間をかけて、私たちが何を求めているのか熟慮した上で選ばれた贈り物は、その価格や希少性にかかわりなく私たちを感動させる。
学術論文も同じである。
学術論文の価値を決めるのは、そこに込められた「読者への愛」である。
「読者への愛」とは言い換えれば「読者の知性への信頼」のことである。
そして、ものを書く人間が読者の知性に対して示しうる最大の信頼の証は「あなたは私が依拠したのと同じ学術データに基づいて私を論駁する権利がある」ということを告げ、「私を論駁するための材料」を読者が使いやすいように整えて差し出すことなのである。
引用出典を明記するのは、そのためである。
それは、論じている私の「正しさ」を傍証するためのものではなく、「私が間違っている可能性」を読者にチェックしてもらうための措置なのである。
私が「引用出典を明記しろ」とうるさく言うのは、「そういうふうに決まっているから」ではない。
それが「読者に対する愛と敬意の表現」だからである。
諸君の健闘を祈る。
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