高島進子先生の最終講義を聴きに大学へ行き、先生の「ビルドゥング」についての回想をお聴きする。
高島先生は「ぼくの好きな先生」(@忌野清志郎)である。
どういう点が好きなのか考えてみたら、高島先生は私と同じく「いらちの人」なのであった。
「いらちの人」は「諦念の人」でもある。
resignation は森鴎外が自らの性情について述べた形容であるが、それは「言葉は、決して『ほんとうに言いたいこと』には届かない。でも、それだからといって、『黙す』という選択を私はしない」というしかたで「自分が語る言葉」と「自分のほんとうに言いたいこと」の乖離を受け容れたひとのたたずまいを指す言葉である。
高島先生が65年の人生を35分で語りきるという「力業」に挑んでいるのをお聴きして、私はこの方は「諦念の人」であり、その「潔さ」に私はつよく惹かれていたのだということにいまさらながら気づいたのである。
神戸女学院からまたひとり、その最良の知的リソースが失われる。
高島先生、ながい間ご苦労さまでした。今後のご活躍を祈念いたします。
斎藤哲也くんから『使える新書』が送られてくる。
斎藤くんは何年か前に合気道の取材に来た編集者である。
とても感覚のいい人だった。
その後もウチダ本のプレゼンをいろいろなメディアで発信してくれた「営業上の恩人」である(google で検索すると、このホームページの次に斎藤くんの「ウチダ・インタビュー」が出てくる。甲野先生、名越先生とのツーショットなど、けっこうレアなコンテンツが見られるのである)。
今回は『寝な構』をご紹介いただいたのであるが、そのコメントが秀逸であったので謹んで再録させて頂く。
「内田樹氏は、天才的な批評眼の持ち主か、稀代の大ボラ吹きかのどちらかである。そうでなければ、フーコーやらラカンやらの難解な構造主義の知見にピタリとあてはまるたとえ話を次々と思いつくはずがない。おそらく可能性としては後者の確率が高い。」
「稀代の大ボラ吹き」とあれば、読者は思わず「おお、どんな本か、読んでみようかしら」と思うに違いない。
まことにありがたいことである。
ご本と同時にご本人から年賀状も届いたので、ご返事に
「どうして判っちゃったの?」
と書き送る。
ま、誰でも判るか。
--------
(2004-01-08 00:00)