1月7日

2004-01-07 mercredi

終日お仕事。
卒論がどどどどメールで届き、それをどんどん読んで、コメントを付けて返送する。
16本読まないといけないのであるから大変である。
ハヤナギ先生は、右手に赤ペンでぐいぐいと訂正してしまうようだが、ウチダはそのようなパトスがないので、「このへんふくらませてね」とか「ここはなくてもいいよ」というようなヤワなコメントをちょろっと書くだけ。
でも、なかなか面白い。
ウチダゼミは「何でもあり」だが、なんといってもウチダとしては、文学作品を卒論テーマに選んでもらえるとうれしい。
今年は三島由紀夫、谷崎潤一郎、村上春樹、と三人が作家論を書いているのでウチダは幸せである。
どれも面白いが、多田くんの村上春樹論(村上作品に頻出する「井戸」のモチーフを扱ったもの)がとりわけ秀逸である。このネタはそのままお借りして私のレヴィナス論に流用させていただく予定。
最近の若いもんは文学作品を読まない、というようなことがメディアでは「常識」とされているが、こういう「メディアが自明視する常識」ほど当てにならないものはない。
最近の若い方々の特徴はあらゆる領域における「二極分化」である。
読まない人はもうまったく読まない。その代わり、読むひとは、がしがし読む。
私たちの世代までは「必読書リスト」をひとつひとつつぶしてゆくような「義務的読書」が励行された。そのために、「みんなが読んでいる本だから私も読まねば」という教養主義的平均化が果たされた。
いまの「読書家」は違う。
教養主義がほとんど崩壊した状況なので、「必読書リスト」なんて存在しないのだ。
だから、逆に読書家たちは節度なく読む。
「ふつう、そんなもの読まないぞ」
というようなものまで読む。
谷崎論を書いている井上くんは谷崎の全作品(さらには谷崎松子の書簡まで)を読破したようである。
そこまで読む人は、昔の文学少女にだって、あまりいなかった。
これと同じ傾向が、あらゆる知的領域でも生じつつあるのではないかとウチダは思う。
「文化資本の局在化」については、佐藤学先生も指摘されていた。
芸術作品についての鑑識眼が備わっているとか、ニューヨークとパリに別荘があるとか、数カ国語が読めるとか、能楽を嗜んでいるとか、武道の免許皆伝であるとか、そういう子どものころから文化資本を潤沢に享受してきた学生が一方におり、一方に、ひたすら塾通いで受験勉強だけしてきて成績以外には取り柄のない学生たちがいる。
そのような集団の歴然とした「文化的インフラ」の格差が、この十年くらいのあいだに東大で際だってきた、というのが佐藤先生のお話であった。
同じことはアスリートをみていても感じる。
一方に世界的水準の身体能力をもつアスリートが輩出しており、その一方で総体としての子どもの身体能力や身体感受性は目を覆わんばかりに劣化している。
日本人は「マジョリティ」のあとを追うことに懸命であるために、社会のおおきな地殻変動が「少数派」のあり方の変化から始まることを見落としがちである。
でも、実際に社会の地殻変動は起き始めている。
それはかつての「一億総中流」から「二極分解」への流れである。
実際には「総中流」といっても、「中流」には「限りなく上流に近いアッパーミドル」から「限りなくビンボー人に近いロウワー・ミドル」までを含まれていた。
そのように中産階級の定義が「グレー」だったのは、最終的に「上流」とか「中流」とかの差別化の指標となっていたのが「年収」だったからである。
年収は定義上毎年変わる。
栄耀栄華を謳歌していたバブリーな紳士が夜逃げして四畳半一間に逼塞するということは珍しいことではないし、昨日までコンビニで働いていた姉ちゃんが一夜にしてアイドルスターになるということだってなくはない。
しかし、現在進行中の「二極分解」の境界線は毎年更新される「年収」ではない。
境界線として機能するのは「文化資本の差」である。
年収は本人の努力でいくらでも変わるけれど、子どもの頃から浴びてきた文化資本の差は、二十歳すぎてからはもう「更新」できない。
そのような「成人して以後はキャッチアップ不能の指標に基づく階層差」がいま生まれつつある(ジェイ・ギャツビーが遭遇した「限界」である)。
近年の統計によると、中学2年生の平均読書時間は一日15分。一方テレビ、テレビゲームに費やす時間は2時間40分である。
自宅学習時間についても日本の子どもは(40%がゼロで)先進国最低である。
そのような子どもが「ほとんど」である一方、そうでないごく少数の子どもがいる。苅谷によれば、その差は母親の学歴と相関している。
東大の入学者における親の学歴と平均年収の増加は急カーブを描いていることはメディアも報じているが、そのことの歴史的意味はまだみんなよく分かっていない。
それは、そのような「ごく少数の子どもたち」は成長したあとも、「メンバーズオンリーの閉鎖集団」を作るだろうということである(だって「バカとは共通の話題がない」んだから仕方がない)。
私たちはいま「新しい階級社会」の出現を前にしているのである。
それは現在流布している「勝ち組」と「負け組」という身も蓋もない区分ではなく、「バカ組」と「利口組」というさらに身も蓋もない区分(「バカの壁」)によって隔てられた階級社会なのである。
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