1月5日

2004-01-05 lundi

大晦日からの日々を振り返ると

12月31日:一日、お仕事。夜半より恒例の春日神社の『翁』へ。帰途、芦屋神社で初詣。おみくじは「大吉」。

1月1日:年賀状返礼ののち、天気がよいので、とりあえず洗濯。その後、どたばたと荷造りして相模原へ。母、兄ちゃんにご挨拶して、るんちゃんにお年玉。

1月2日:上野毛のエックス義母宅にるんちゃんと共にお年賀。
自由が丘で平川くん、石川くんと会って、新年のご挨拶。平川君とは今年「東京ファイティングキッズ」の他に、もう一つなんか仕掛ける予定。
石川くんも、ここらで人生に区切りをつけて、新機軸展開の由。キーワードは「ミッション」。
国際情勢の来し方行く末について論じるが、あまり明るい展望が得られず、暗い顔になる。
去年は松下正己くんも独立したし、われらが青春のアーバン・トランスレーションはゆるやかに回想の彼方に消えつつある。

1月3日:恒例の多田先生宅新年会にドクター佐藤とともにお伺い。
東大気錬会の諸君、自由が丘の笹本先輩、大田さんと痛飲。
多田先生の手作り「天狗舞どぼどぼ入り、鶏のお雑煮」やお煮しめを頂きつつ、キャンティの1.5リットルボトルをぐいぐい飲む。飲み過ぎて、小田急で眠って乗り過ごす。目が覚めると「湘南台」。
湘南台って、どこ?
なんだか江ノ島の近くまで来てしまったらしい。

1月4日:恒例の「家族そろって温泉旅行」に、熱海に来る。相模湾をみおろす絶景のロケーションで、露天風呂につかっては、おしゃべりして、美食を堪能する。
次回は、「みんなそろって麻雀旅行」というものを計画。兄ちゃん、平川くん、石川くんと温泉につかってわいわい麻雀をしようということになる。麻雀というのは毛沢東時代の大陸では「老人以外はしちゃダメ」ということになっていたようだが、私たちももうそろそろ「隠居、余生」の時節である。余生というのは「あとはもう死ぬだけなんだから、すきなことやらせてくれよ」という言い訳が通るので、ぐっと人生のオプションが広がってたいへんに使い勝手のよろしいものなのである。
鈴木晶先生も年頭にきっぱりと「隠居宣言」をなされていたことだし、今年はみなそろって「わしら、隠居ですけ、ま、ひとつおめこぼしを」路線を突っ走ることにする。

1月5日
立場上詳細は申し上げられないので、以下に述べるのは一般論である。
どうやら国立大学は独法化をにらんで、「綱紀粛正」路線に突き進んでいるらしい。
しかし、「大学教員としての倫理規範」のようなものを掲げて、舌禍筆禍事件をきっかけにして逸脱者をどんどん排除してゆくような粛正路線を歩んでゆくと、最終的には「沈香も焚かず、屁もひらず」的なサラリーマン教員だけで大学が埋まってしまうことにはならないのであろうか。
私なども、インターネットのホームページにしばしば大学のあり方についての批判を書き連ねているし、自身の生活態度もまた諸人の範とするにはほど遠いが、それについて理事長学長から「こまるよ、ウチダくん、ああいうこと書かれちゃ」と譴責を受けるというようなことは、これまでのところ起きていない。
制度の健全を保つのは、なによりも「情報公開」である。
大学というのは公共性の高い機関であり、それゆえに、大学がどのような歴史的文脈のうちに位置づけられており、どのような可能性とどのような限界を持っているかについてひろく情報公開をすすめ、同意を求め、批判を受け容れることは大学人の「社会的責務」のひとつである、と私は考えている。
たしかに自分の勤務する大学について批判的に言及するということが、大学に不利益をもたらす場合もある。
しかし、組織内に批判的な発言の場が確保せられている、ということは最終的には大学の知的威信にとって、プラスに作用すると私は考えている。
教職員全員が学長の合図ひとつで、異口同音に同じスローガンを繰り返す大学よりも、学内において教育理念や組織問題について侃々諤々の議論が沸騰している大学の方が、大学のあり方としては健全ではないだろうか。
立場上知り得た情報についても、どこまで批判的文脈に乗せるかという「さじ加減」はことは個々の大学人の良識に委ねるべきことであると私は思う。
特に、それが問題の多い事実を開示することによって、組織の問題点を改善せんとするという方向性をもっているものである限り、内部からの情報公開に対しては、できるかぎりこれをモラルサポートする、というのが組織人としての筋目ではないのか。

前年のCOL(特色のある大学教育支援プログラム)において文部科学省がはっきりしめした方針は、大学の「市場開放」方針である。
大学の淘汰を市場に委ねるという基本方針に私は反対しない。
しかし、市場開放政策への組織的対応として、「学長をトップとする上意下達組織の整備と、大学教授会からの人事権・予算権の剥奪」がリコメンドされる、ということになると話が違う。
トップダウンで機能する組織もあるし、トップダウンでは機能しない組織もある。
営利企業がトップダウンシステムを取るのは、市場のリアクションが早いから、トップの判断の成否がただちに検証されるからである。
経営判断の組織的責任が明らかであれば、失敗成功の原因発見と問題点改善がすぐに行われる。
しかし、大学はそういう短期的に反応するマーケットを相手にしているわけではない。
短期的に言えば、大学にとっての「市場」とは(入り口における)志願者と(出口における)就職先であるが、志願者数が多いとか、就職率がよい、とかいうことだけで、ただちにその大学の教育の「質」について判定することはできない。
ある年、志願者が減ったとか、就職率が落ちたという「市場の短期的反応」だけで、教育理念や手法が「間違っていた」と結論することはむずかしい(某大学はある年に志願者が前年度より急増したが、それは最寄り駅が「特急停車駅」になったせいであった)。
大学教育ではさまざまな教育理念、教育手法をもった教員たちがそれぞれ自分の信じる仕方で学生を育て上げる。その無数の教育的介入の複合効果として「最終製品」ができあがる。
「この学生は私の製品である。この作品の出来がよいのは、私の教育理念と手法が正しかったからである」といばって主張できるような教職員は大学にはいない。同じように、教育が仮に失敗して、ろくでもない卒業生しか送り出すことができなかったとしても、それを「私の責任である」と言って引き取る権利をもつ人間もいない。
理事会の経営判断がまったく間違っていた場合でも、個々の教職員が必死の努力で、その組織的な欠陥を補って、最終的に「すぐれたアウトプット」を達成するということがありえる。逆に教員はスカばかりだが、経営判断が絶妙で、優秀な学生がひきもきらず集まるという学校だってあるだろう。
大学というシステムはあまりに複合的なファクターが絡み合い、そのアウトプットの査定も、プロセスの統制も、なかなか一元的にはなされえない場なのである。
この点がマーケットの反応がすべてを決定するレンジの短い企業活動と大学のようなレンジの長い教育活動の決定的な違いである。
その差異を大学の企業化を推進せんとする人々はご理解頂けているのであろうか。
ウチダはそれが心配なのである。

教員がビジネスマインドをもつことは少しも悪いことではない。
しかし、いまの独法化の流れは、なんとなく、上司にごまをすり、付和雷同し、大勢に順応し、トップの命令に一斉に首をふる「イエスマン」の集団を作り上げようとしているように私には見える。
現在の支配的価値観に同意する人間たちだけを残し、それを懐疑したり、それに異議をさしはさむ人間たちを根絶やしにするような仕方でこの先国公立大学の再編が進むとすると、それは日本の知的未来に遠からず致命的な影響をもたらすことになるのではないか。
そこまで心配するのは心配のしすぎであろうか。
--------