12月30日

2003-12-30 mardi

29日は恒例の「阪神間仏文学者+難波江さん」のジョイント忘年会の予定であったが、仏文関係のジロー先生おひとりと参会者が少ないため、急遽「ご近所忘年会」に趣旨替えして、飯田先生、ウッキー、ドクター佐藤もお招きすることになった。
鵜野先生にもらった牡蠣の残りを冷凍していたので、そのうち半分を解凍して、「牡蠣のクリームソースのパスタ」を作る。
タマネギとベーコンとエノキダケとブラウンマッシュルームをバターで炒めて、そこに生クリームをどぼどぼ入れて、塩胡椒とコンソメスープで味付け。
牡蠣は別のフライパンでオリーブオイルできつね色になるまで炒めて、最後にクリームソースに放り込む。
なんだか理由はわからないけれど、いっしょに煮込むと牡蠣の匂いが強くなりすぎるんじゃないかなと思ったのである。こういうのは長年テキトーに料理をしていると、なんとなく「そんな感じ」が分かるのである。
牡蠣が余ったので、ついでに牡蠣フライを揚げる。
みんなが来る前に揚げたてをつまみ食いしたが、これが美味!
私が用意したのは、あとは生ハムのっけた地中海風サラダ(このところ、こればっかだな)。
みなさんが一品持ち寄りで集まってきたので、まず Moet et Chandon で乾杯。
みなさんよくしゃべり、よく食べ、よく飲む。
今回もりあがったテーマは「結婚」。

当日結集された6名のうち未婚者はウッキー一人で、あとは既婚者とバツイチ者。
ヘテロセクシュアルを規範とする一夫一婦制は保持されるべきか否かについて激論が展開した。
ウチダはもちろん「ヘテロセクシュアルを規範とする一夫一婦制護持論」者である。

「でも、そんなこというけれど、世の中には非ヘテロのひともいる。かれらの性的自由と人権はどうなるのであるか」
という反論がもちろんなされるわけであるけれど、私は「人間というのは本質的に性倒錯である」とするフロイト主義者なので、ヘテロも非ヘテロもみんな性的幻想だと思っている。
人間はやろうと思えば、どんな対象にだって(ハイヒールにだって皮と生ゴムにだって)リビドーを固着させることのできる、ある種の「化け物」である。
だからこそ、ヘテロな性幻想をドミナントな規範として制定し、「これがメインで、これ以外の性幻想はマージナルだから、やりたい人ははじっこのほうでこそっとやってください」という抑圧をかけないとまずいと申し上げているのである。
だってそうでしょ?
ハイヒール舐めたり、皮と生ゴム身体にまきつけてオルガスムスを感じるような人ばかりになったら、「再生産」しなくなってしまうから。
個人の性的自由はもちろん大事なことであるけれど、それ以上に大事なものがある。
それは「性的自由を要求できる程度の社会的基礎づけ」(つまり屋根のある家に済み、三食が食べられ、市民としての社会的承認が得られている状態)を確保することである。

ものには優先順位というものがある。
性的自由はたしかに基本的人権の一部である。けれども、それは「衣食足りて」のちに要求されるべき種類の人権である。
だから、仮にいまの日本が人口過剰で、資源が足りないという状況であれば、エロスの追求が人口増につながらない非ヘテロ的性幻想を私はおおいに応援し、そのために進んで弁ずることを厭わないであろう。
しかし、いまはそうではない。
私たち大学教員自身が子どもが激減しているせいで、「飯の食い上げ」になりつつある。
そういう局面でヘテロセクシュアルな性幻想を規範的であるとか抑圧的であるとかいってしりぞけることはウチダには得策とは思われない。

「でも、そのことは一夫一婦制の維持とは関係ないでしょ。結婚しなくても子どもは産めるんだから。結婚してない女性でも子どもが育てられる社会環境を整備することが優先的な政策じゃないの」
それもたいせつなことである。
とりあえず出生数が確保できるならなんでもやる、というのが厚労省のエンゼルプランという施策である。もちろんその中に保育園の整備や、地域社会における育児のサポートといった項目も含まれている。
しかし、そのような制度が整備されるまでの過渡的現段階では、女性がひとりで子どもを産み育てるというのは非常にきびしい仕事と言わねばならない。
「地域的サポート」という場合の「地域」というのは文字通り「スープの冷めない距離」のことである。
その範囲に「子どもが熱を出した」といっては保育園に迎えに行ってくれ、「仕事で旅行するから」といっては泊まりがけで預かってくれるような信頼に足る育児サポーターを複数集めることができるためには、その女性が社会的に尊敬され、それなりの経済的余裕がなければならない。
つまり、子どもを育てるリソースがない女性が子どもを産んでも、代わって地域社会や同業集団や行政機関が育ててくれる社会ができるまで、過渡的には「シングルマザーになれる」人というのは「社会的上層」の女性に限られるのである。
そのような女性の数を増やすことにウチダは何の異論もないが、それを「標準的な子育て」の仕方としてリコメンドすることはできない。
「男性ひとりで子育て」をしてきた経験から、このようなイレギュラーな子育ては、いまの日本では「定収と余暇と友人」がある人間にしかできないことを知っているからである。
私の事例は例外的であり(とくに「余暇」の点で)、私の子育てスタイルをもって「モデル」としてご推奨することはできない。
現に、多くの女性にとっては、「社会的に尊敬され、それなりの経済的余裕」をもつ機会そのものが減少しつつある。
人口減とともに総需要が減少してゆく以上、雇用も賃金もそれにつれて下落するのは理の当然である。
この先、多くの女性にとってその実現がしだいに困難になりそうな選択肢を「モデル」として提示することは私にはためらわれるのである。

それゆえ、ウチダの結論はヘテロセクシュアルな性幻想に支えられた一夫一婦制の護持である。
一夫一婦+偕老同穴すなわち結婚契約の尊重である。
いくらでも自由に離婚再婚を繰り返すことができるし、それは奨励されるべきだという主張をなされる方もいるが、ウチダはそれには反対である。
そういうことになると、結果的には複数の配偶者を頻繁に取り替えることのできる「性的強者」と生涯を未婚で過ごさねばならない「性的弱者」への二極化が進行するからである。
ウチダは社会の「多様化」には賛成であるが、社会の「階層化」には賛成できない。
社会成員の全員がそれぞれに生涯をともにすることのできるパートナーを得ることが、社会的には望ましい形態であるとウチダは信じる。
人間がきっちり男女同数で生まれてくるのは、少なくとも理論上は「全員が配偶者を得ることができる」ためではないのだろうか。
そのような自然の配慮に対して人間はあまり賢しらな抵抗をすべきではないのではないか。

というようなことを論じたのである。しかし、たしかに容易に結論のでない論件ではある。
これについては『ミーツ』の次の次の号で、もう少し詳しく論じてみたいと思っている。

30日は恒例の「年の瀬に映画を見る会」。
年末は映画館ががらがらになる。とくに大晦日の最終回などというのは、もうみごとに閑散としている。
ウチダは「がらがらの映画館」が大好きなので、年末になると必ず映画を見に行く。
見に行ったのは、2ヶ月遅れのMatrix revolutions。
これまで会った人たちがみんな「片づかない顔」をしていたので、たぶんそういう結末なのであろうと思っていたが、やはりそうであった。

まえに松竹から公開前に公式パンフレットへの「マトリックス論」の寄稿を求められたことがあった。
そのときはフィルムも資料もなにも届いていない段階で「感想文」を書いてくれと言われたので、さすがのウチダも見ていない映画の感想は書けないとお断りしたのである。
今回は見たので、いろいろ分かった。
ラストシーンが『風の谷のナウシカ』からのパクリだということは分かったけれど、当然こんなことはもう誰かが指摘しているだろう。
結局こういうときはラカンをつかって解読するしかない(「困ったときのラカンだのみ」)。
でも、ラカンを使うと「あまりに簡単」になってしまうのが難点。

以前書いた通り、イカやタコのような機械がうようよするのは「現実界」である。
だから、地底のザイオンの球状の「ドッグ」は「母の子宮」。
そこに突っ込んでくる「鉄のドリル」はだから「男根」。
ならば「男根」が開けた穴からざわざわと入り込んでくる無数のイカは「スペルマ」以外にないではないか。
今回の映画のクライマックスの戦闘シーンは「子宮内に雪崩れ込む精子の群れと、その着床を阻止しようとするものたちの戦い」なのである。
避妊戦争だね。
ザイオンの全員の願いである「永遠の平和」とは「母の胎内に生命以前のものとして、永遠にとどまりたい」という現実界的願望に他ならない。

ネオは「にもかかわらず生まれてしまった子ども」である。
『マトリックス1』でキアヌ・リーブスが裸で丸坊主のすがたで「ぼちゃん」と「水中出産」する場面を思い出して欲しい。
彼は現実界を離れて、想像界に踏み込む。
そこで、「想像界」を表象するものと出会う。
エージェント・スミスである。
スミスさんの仕事は「世界は鏡像で満たされている」という自他未分化の境位の創設であるから、彼はまさに「想像界の王」である。
映画のもう一つのクライマックスであるネオとスミスの格闘シーンはだから「いずれがオリジナルでいずれがコピーであるかを争う奴隷と主人のヘーゲル主義的な殲滅戦」なのであった。
ネオは自己の鏡像との命がけの抗争に勝利して「想像界」を離脱し、「象徴界」へのジャンプを成し遂げる。

「マトリックス」とは「象徴界」のことである。
ネオが「象徴界」に進むことができたのは、「世界=マトリックスは私がここに到来するより先に、すでにプログラムされており、私はそのプログラムがどういう意図で作り出されたのかを知らない」という「絶対的遅れの覚知」を得たからである。
この「遅れ」の覚知の有無が、ネオとスミスの勝敗を分岐する。
スミスは「自分は世界のすべてを知っている」と思いこんでいる。それが彼の敗北の理由である。
それと対称的に、象徴界を代表する登場人物「予言者オラクル」の繰り返すことばは「知っているけれど、知らない」「決まっているけれど、どうなるか分からない」である。
ネオは、映画のラストが予告するように、いずれマトリックスに到達し、そこを「終の棲家」と定めることになる。
そこはプログラムの中の世界である。
けれども、それが「人間の世界」なのである。
私が生きているこの世界の起源もその目的も私は知らない。
なぜなら、私は世界が「できたあとに」世界に到来したからである。
その覚知を得たものが「人間」と呼ばれる。「インターネット持仏堂」に詳述したとおりである。
私たちが知っているながく語り継がれる物語のすべてがそうであるように、『マトリックス』もまた「ビルドゥングスロマン」であり、そこで語られるのは、ただひとつのメッセージである。
それは「人間になれ」ということばである。
というわけで、ラカンを使うと『マトリックス』も『こぶとりじいさん』と「まるで同じ話」だったことが分かるのである。
でも、こういう映画の見方もいい加減飽きたな。
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