12月27日

2003-12-27 samedi

とりあえず4日かかって部屋の大掃除が終わる。あとはベランダと外回りだけ。これは大晦日まわし。
のんびりとたまった原稿を書く。
まず昨日締め切りだった『ミーツ』の「社内改革論」。
大筋は書けていたので、さらさらと数十行書き足して、できあがり。
「インターネット持仏堂」その11も釈先生がだいぶ待ちくたびれておられるようなので、さくさくと書いてしまう。
「東京ファイティングキッズ」の続きをお正月前にもう一本書かないといけない。これはあとで飲みながら書くことにしよう。
高橋源一郎さんの『ジョン・レノン対火星人』の「解説」もぱたりと筆が止まったままである。
『ジョン・レノン対火星人』は高橋さんの作品の中では、学生運動のことがすごく生々しく出てくる小説なので、いつものように「お気楽」気分で書くことができない。
1970年前後の学生運動の中で私は友人を何人か失った。
彼らの死がどうしていつまでも気になるかというと、死んだのが彼らであって、私でなかったことに「必然性」がないからである。
私がたいへんクレバーに立ち回ったとか、革命的警戒心に欠けていなかったとか、そういうことで生き残ったわけではない。
私はいまよりずっとワキが甘く、いまよりずっと攻撃的な人間だった。
死んだのは私であっても少しもおかしくない状況があって、そこで意味の分からない選択が行われて、「いいやつ」が死んで、私が生き延びた。
そういうことがあると、気持ちが片づかないのである。
それが30年尾を引いている。

レヴィナスの「有責性」という概念にこだわりがあるのも、あるいはその「必然性なく生き延びた」ことが片づかないからかもしれない。
レヴィナスは39年に開戦とほとんど同時に捕虜になり、終戦までハノーバー近郊の収容所に収監されていた。
フランス軍兵士の軍服がウィーン条約で彼を保護していた点で、いかなる保護規定もなく民間人として絶滅収容所に送られた他のユダヤ人とまったく立場が違っていた。
収容所にいるあいだアウシュヴィッツのことを何も知らずに復員したあと、レヴィナスはリトアニアの親族がほぼ全員虐殺されたことを知った。
そのときレヴィナスもたぶん「どうして私が生き残って、彼らが死んだのか」という問いに答えきれずに「片づかない気分」になったはずである。
だから、レヴィナスは「無垢の被害者」という立場からナチの非道を告発することができなかったのである。
愛する人々が私の「代わりに」死んだのではないかと思ってしまった人間は、すごく気が滅入って、あまり告発とか断罪とか、そういうポリティカリーにコレクトなことをする気分になれないのである。
あ、そうか、この話を解説に書けばいいんだ。
問題解決。

ウィンドウズのメーラーが故障したので、IT秘書のイワモト・トクトクくんがやってくる。
「ね、どうして、こういうふうによく壊れちゃうの? うちのパソコン」
「その人がそばに寄るだけでパソコンが壊れちゃう人っているんですよ」
「え、『その人』ってオレのこと?」
「ほかにだれがいるんです」
と秘書はいつものようにクールな鼻声で答えた。

メーラーをとりあえず使えるように緊急修理して、本格的な再インストールはまた来年ということにして、クールなIT秘書ともども、今年最後の観能のために大阪能楽会館にでかける。
IT秘書はなぜか急に能に興味がわいてきてお正月は大槻能楽堂に『翁』のチケットを買ったそうだが、本日が初観能。
だしものは、能『善界』、狂言『金藤左衛門』、舞囃子『菊慈童』、『放下僧』。
喜多流の大島輝久さんが舞った『放下僧』がすばらしく、道々絶賛しながら帰途につく。
身体を精密に使うということをこのところずっと合気道では稽古しているのであるが、仕舞と合気道は、基本のOSは一緒だねということでIT秘書と意見の一致を見る。
はじめての観能でちゃんとシテ方の身体運用の着眼点が分かるのだから、なかなか見巧者である。
能楽業界の最大の悩みは観客層の高齢化である。
とくに若い男性観客というのは、ほとんど「絶無」といって過言でない。
ぜひ「趣味・能楽鑑賞」の青年たちがイワモトくんのあとに続くことを祈念したい。
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