12月17日

2003-12-17 mercredi

朝日カルチャーセンター連続講演の3回目。
今回のお話は「他者を聴く:響きとしてのコミュニケーション」というもの。
話は例のごとく転々として奇を究め、太宰治の『如是我聞』から始まって、「座頭市」の殺陣の話、K-1武蔵選手の話、山岡鉄舟の臨終の話、葬礼の話、最後はラカンの精神分析理論と多田先生の武道理論は「前未来形において現在を回想することによって、人間の人間性は構築されるという点において、同一の考想である」という結論に落ち着いた。
話しているうちに、なぜ私が武道を稽古しながら、哲学や精神分析を勉強してきたのか、その理由が30年目にして、ようやく腑に落ちたのである。
私は「人間とはどういうものか?」ということを知りたかったのである(当たり前だね)。
そして、昨日得られた結論は「人間とは時間の中を行き来するものだ」ということであった。
まあ、こんな説明ではぜんぜんお分かりにならないであろうから、これから書く『身体・言語・時間』(岩波書店)の刊行を待っていただきたい。
武道の術理とラカン派精神分析とレヴィナス哲学は「同一の人間理解に基づく」ということを縷々説く予定である。

講演のあと、医学書院の「ワルモノ・エディター」白石さん、本願寺の「スーパー・エディター」藤本さん、持仏堂の共同管理人釈先生、街レヴィ派のコバヤシさん、そしていつものウッキーと北新地の焼鳥屋に繰り出して、プチ宴会。
世に「大瀧理論」として知られている学説に、日本人は日本語に変換可能な音韻で構成されている外国語に親しみを感じる傾向にある、というものがある。
ポール・アンカがなぜ日本であれほど受けたかについて、大瀧詠一先生は「あんか」に対する日本人の伝統的な親和が関与していたという卓見を述べられたことはご案内の通りである。
またたとえば、『ムーミン』のなかの登場人物でいちばんしばしば名前が言及されるのは「スナフキン」であるが、フィンランド語の原音はまったく似てもにつかぬ音の名をもつこの登場人物に「砂布巾」という親しみやすい日本語名をつけた訳者の洞察は多としなければならない。
という話から始まって、「N音の力」という話題で盛り上がる。
「ん」でぐっと締まる名詞に、人間はつい「負い目」を感じてしまうというのが白石説。
白石さんによると、「人間の尊厳」という概念があれほど強力なのは「にんげんのそんげん」には「ん」音がなんと4つも含まれており、かつ「んげん」という執拗な脚韻を踏んでいることによる。
「ん」音を大量に含み、かつ脚韻を踏むフレーズは「思想的利器」として強い。なるほど、こ、これは恐るべき洞見と言わねばならない。
言われてみれば、歴史に残る高僧の名には「ん」音が多いという指摘が宗教関係者からも提出された。
鑑真「がんじん」、親鸞「しんらん」、日蓮「にちれん」、源信「げんしん」、法然「ほうねん」、蓮如「れんにょ」などなど
鑑真、親鸞、源信などは「ん」音を二つも含んでいる。
さらに、釈先生からは「阿吽」の「あ」で始まり「ん」で終わる名前には、宇宙的秩序が書き込まれおり、これこそが名前としては最強ではないかという仮説が提示された。
たとえば、と指を折って藤本さんが挙げたのが
アラン・ドロン。
うっきーが挙げたのが
アンパンマン。
うーむ、この仮説はちょっと弱かったかな・・・
るんちゃんはちゃんと「ん」音で終わっているので、あとは「あ」で始まり、できれば「ん」音も含む名字のひとと結婚すれば「最強」であるというご指摘も頂いた。
安藤るん、とかね。
るんちゃんには、ぜひご一考願いたいと思う。

宴会後も藤本さんからメールで次々と頭に浮かぶ「あ・・ん」関係の名詞が送られてきたので、この場を借りてご紹介しておく。
「アジャンタ石窟寺院」「赤染衛門」「アーカンソー州知事ビル・クリントン」
今年活躍した人には「んいち」音の人々が多いというご指摘もあった。
こいずみじゅ「んいち」ろう、ほしのせ「んいち」、たかはしげ「んいち」ろう、なかざわし「んいち」
また、アニメも多くが「ん」音を含むタイトルを採用していることも今回の調査によって知られたのである。
ドラえもん、サザエさん、ポケモン、ウルトラマン、ちびまる子ちゃん、魔女の宅急便、ドラゴンボール、キン肉マン・・・
はたしてこれらは単なる偶然なのであろうか?それとも、私たちの無意識は「ある種の音韻」に操られているのであろうか?
そういえば、ウチダ本のタイトルが「七五調」になっているという事実も発見された。
「ためらいの倫理学」(五五)
「映画の構造分析」(五七)(これは「えいがのこ」「うぞうぶんせき」と分けるのね)
「私の身体は頭がいい」(八五)「寝ながら学べる構造主義」(八五)
「私の身体は」も「寝ながら学べる」も8拍であるが、日本の五七五は実際には「たたたたた・たたたたたたたん・たたたたた」と「五八五」だからこれでよいのである。
「構造主義」がどうして五拍なのか、という疑念もおありだろうが、日本語では「主義」は一息に読み下すから一拍と数えて大過ないのである。(だから「マルクス主義」も五拍、「レーニン主義」も五拍、「毛沢東主義」は七拍と、人口に広く膾炙する術語の多くは五拍または七拍なのである)
おそらく日本語学の田中真一先生にお伺いすれば、さらに興味深い事実が発見されるのであろうが、なかなかに奥の深いものである。

インターネットでこんな記事が配信されてきた。
2005年4月に開校予定の新都立大が、語学の授業を民間の英会話学校に委託することを検討している。英会話学校から非常勤講師を派遣してもらう方法は私立大を中心に広がっているが、英会話学校に学生を行かせて単位を取らせることも検討中で、「授業外注」が実現すれば全国初の試みになる。一方、語学を必修科目から外し、語学に堪能な学生は受講しなくても卒業できるようにする。これらの取り組みは「大学教育での語学とは何か」を問いかけることになりそうだ。
東京都大学管理本部によると、英語、フランス語、ドイツ語などの外国語科目を民間の語学学校で学ばせることを計画している。これまでは、文学や言語学を専攻する教授らが語学を担当することが多かったが、「文学者としては権威でも、必ずしも語学教育が上手とは限らない」と判断した。民間の英会話学校には「生きた英語」を教えるノウハウがあり、音響機材も充実しているため「外国人の講師を派遣してもらうか、学生を行かせるか検討している」という。教授を多く雇うより人件費が安くつくメリットもあるとみられる。
ベルリッツやECCなどの大手英会話学校は、私立大など数十校に外国人講師を派遣し、専門的な実践英語を教えている。文部科学省は「講師を招くのはいいが、授業の内容や成績評価まで丸ごと外部に委託すれば、大学の授業とはみなせない」(高等教育局大学課)と懸念しており、教授らからは「語学教育の軽視」と批判の声も出ている。
新都立大は、卒業要件の一つを「外国語のスキル(技能)」としている。一般学生は、選択科目から外国語を選んで学ぶが、海外在住経験者など卓越した語学力を持つ学生は、授業を受けずに、他の科目に振り向け、有効に活用することができる。入学時の語学力に限らず、在学中に海外留学したり、自力で英会話学校に通って語学力を身につけたりした学生は、英検などで一定水準の語学力を実証できれば、卒業要件を満たしたとみなす。

こんなことをしているようでは、新都立大学は遠からず志願者激減によって経営破綻することは目に見えているが、それは都のお役人たちが、大学はスキルの習得の場ではないという根本のことを理解していないからである。
教育の何であるかを理解していない人間が学校をいじりまわすとどんな災厄が訪れるか、私たちはこれからそれをあちこちの大学の事例を通じて思い知らされることになるだろう。
同じことが本学でも繰り返されないとよろしいのであるが。
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