12月15日

2003-12-15 lundi

第七回大学自己評価委員会。
今日も議題はもりだくさん。
中間報告書、教員評価システム、COL、職員評価システムの導入、任期制教員、理事会改革・・・と「自己評価委員会に聖域なし」という看板通り、学院のあらゆる問題を議すのである。
自己評価委員会は議決機関でも執行機関でもない。
何の権限もない諮問機関であり、大学の「問題点の発見と改善」について学長に「忌憚ないところ」を答申するというのが仕事のすべてである。
だから、どんなことについてでもご意見を言わせて頂けるのである。
今議論されている教員評価システムにしても、べつに運用の主体は自己評価委員会ではない。
自己評価委員会が「案」だけ練って、「こんなのできましたけど、いかがですか」と学長に答申するだけである。
採用するかどうかを決めるのは教員のみなさんである。

その教員評価システムがだんだん「骨抜き」になってきた。
できるだけどの教員でも高得点が得られるような案をみなさん「改善」としてご提言下さっている。
まことにご配慮のゆきとどいたことではあるが、全教員が満点を取れる査定システムを作ることで、はたして自己点検・自己評価は可能なのであろうか。
学生諸君に向かって「みんな、よろこんでくれ!こんど導入した教員評価システムによれば、本学の教員は全員が100点だったぞ!」と告げると、学生諸君が「ええ! 私たちって、なんてスバラシイ大学で勉強しているんでしょう。しあわせ!」と感動・・というような底抜けに明るい未来をあるいはみなさんはご想像されているのかも知れない。
ウチダはそれほど楽観的にはなれない。

配点も高騰している。
第一次案ではたしか単著が5点であったのだが、いつのまにか10-20点にまで急騰していた。
「この10点から20点の差はどうやってつけるんですか?」
という質問に、提案者のお答えは
「何十年に一本というようなライフワーク的な著書には20点、毎年出せるような本は10点」
というものであった。
本学で「毎年本を出している人間」はあまり多くおられない。非常に少ないと申し上げてもよいが、おそらくその人のための特別枠をご用意下さったのであろう。

「入門書・啓蒙書の類」は7点というご提案である。
専門家向けの学術性の高いものと一般読者向けのものでは、「格が違う」ということのようである。
しかし、研究書の学術的価値というものは体裁として「入門的に書かれている」かどうかによって軽々に決することのできないものであるようにウチダには思われる。
この基準を当てはめるならば、フロイトの『精神分析入門』もフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』もウェーバーの『職業としての学問』も、みんな7点ということになる。
仮にフロイト博士が本学の同僚であった場合に、『精神分析入門』が7点で、どなかたが博士論文を300部自費出版されたものが20点という配点になったと聞いて、フロイト博士の顔は曇らぬであろうか。
私はその配点を書籍の質に合わせて適切にせよと申し上げているのではない(「『精神分析入門』に5万点」というくらいじゃないと学術的に適切な配点とは言われぬであろう)。
そうではなくて、「適切な配点」を実現するためには、質的なレビューが必要であるが、教員全員の業績についてそのような客観的査読を行いうる審級は(「歴史の審級」以外に)存在しない、ということを申し上げているのである。
だから、研究の質的査定はあきらめて、足し算ができれば分かる誰にでも分かる量的査定に限定しましょうとご提案申し上げているのである。
量的査定なんかに意味はない、とおっしゃる方も多いが、それでも「データがない」よりはましである。
20年間一本も論文を書いていない人間と、毎年単著の研究書を出している人間では、ふつう「後者の方が学術的アクティヴィティが高い」と判断して大きくは過たない。
そのような「大きくは過たない」程度のデータの収集をしませんか、とご提案しているだけなのだが、それを(21年目に満を持してカッキ的な論文を発表するかも知れないから)データは無意味であると言われると、ウチダはまことに困じ果ててしまうのである。
そのようなことを主張される先生はかりにご自身のご令息なりご令嬢なりが、大学受験に20回落ち続けた場合、21浪で東大に受かるかも知れないから、大学受験の査定には意味がないという議論をなされるのであろうか。
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