12月10日

2003-12-10 mercredi

イラク派兵が正式に閣議決定した。
小泉首相は憲法前文を読み上げて、今回の派兵がその精神に則ったものであることを強調した。
首相が引いたのは次の箇所である。

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことにのみ専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげてこの崇高な理念と目的を達成することを誓う。」

首相が言いたいのは

(1)日本が自国一国の平和に専念して、他国の戦争状況を看過することは、普遍的な政治道徳に悖る

(2)全世界の国民が「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」ように「国家の名誉をかけて全力をあげる」ことを憲法は命じている

ということであったらしい。
つまり、小泉首相は他国民が「平和のうちに生存する権利」を護持するためという大義名分さえあれば、当該国民からの要請抜きでも、日本は他国に派兵し、そこに平和をもたらしきたすことができる(どころか義務を負っている)という大胆にして斬新な憲法解釈を行ったわけである。
すごいね。
なぜ大胆かというと、この解釈が「あり」なら、日本はこの先もうなんでもできるからである。

現在、イラクには国内を実効的に支配しているイラク人の政治勢力は存在しない。彼らが平和的に生存する権利は日々脅かされているが、現実にイラク国民多数を殺傷しているのは、米英軍兵士である。
である以上、この憲法解釈に立てば、「罪なきイラク国民を塗炭の苦しみから救い、鬼畜米英軍に膺懲の鉄槌を下すために自衛隊を派遣する」という政治決定だってこれからは可能なのである。
しかし、論理的には可能であるにもかかわらず、首相はこの憲法解釈からそのような政策を導出しなかった。
なぜか。
それは小泉首相が「サダム・フセインやその残党」には「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」を認めていないからである。
彼らは気の毒なことに「全世界の国民」にカウント・インされていないのである。
小泉首相が「全世界の国民」という場合、そのカテゴリーに誰が含まれるのかは、そのつど彼が決定する。
イラク国民であっても、米英軍の占領政策に反対する人々は「全世界の国民」には含まれないので、「平和のうちに生存する権利」を認められない。
だから、派遣される自衛隊兵士も「全世界の国民」には含まれていない。
だって、彼らは「恐怖と欠乏」の戦場にこれから送り込まれ、「平和のうちに生存する権利」の請求は「ま、とりあえず、しばらく我慢してね」と肩を叩かれているわけだからである。
誰が「全世界の国民」であるかは「私が決める」ということを言い落としたまま、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という憲法前文がこの派兵を根拠づけていると首相は述べていた。
どういう人が首相のスピーチライターをしているのか知らないけれど(本人が書いてるのかな)、よほど悪賢い人間か、よほど頭の悪い人間か、いずれかであろう。
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