12月9日

2003-12-09 mardi

ホームページの記事の一部を転載したいので許可を頂きたいとか、リンクを貼りたいけれど、よろしいか・・・というメールをときどき頂く。
本ホームページはリンクフリー、コンテンツはコピーフリーである。
インターネットというのはコピー&ペーストするためのメディアだと私は思っている。
だから、ウチダの書き物に限って言えば、コピーフリー、剽窃フリー、改竄フリーである。

私は「自分の考え」を一人でも多くの方にアナウンスし、共鳴する方を獲得したいという願いからこのホームページを作っている。
その本旨からして、誰かが「私の考え」を広めてくれて、それによって「私の考え」を伝え聞き、それに同意する方がひとりでも増えるのであれば、歓迎こそすれ、それに反対する理由が私の側にあろうはずはない。

plagiarism(剽窃)が厳しく禁じられるのは学術の世界の話であり、インターネットの言説空間は学術の世界ではない。
学術の世界の常識をそれ以外の領域に適用するのは適切とは思われない。
学術の世界で plagiarism が禁じられるのは、おおかたが信じているように、知的な発見についてのプライオリティがしばしば、「特許」や「名誉」や「金」とリンクするからではない。
そんなことは副次的なことに過ぎない。
そうではなくて、「真理に価値がある」という価値観そのものが学術性を担保しているからである。
学術研究というのは「真理の探求」の場であり、その探求の真理性を担保するのは、研究者の「真実」に対する宿命的なこだわり以外にあり得ない。
自分の発見でないことを「私の発見である」と称する人は嘘つきである。
よそから借りてきた知見を「私のオリジナルである」と称する人は嘘つきである。
この程度の「誰にでも追試可能な命題についてさえ嘘をつく人間」は、「真実に対する宿命的なこだわり」を欠いていると通常判断される。
剽窃する研究者は、それ以外の場所でも虚偽を述べ、出典をごまかし、データを改竄し、不適切な論証や、詭弁を弄している可能性が、そうでない研究者の場合より高い。
研究者がバカであることは少しも科学の進歩を妨げないが、研究者が嘘つきであることは科学の進歩を致命的に遅滞させる。
というのは、データを改竄している可能性がある研究業績に、同業者は研究としての信頼性を認めることができないからである。
もし、剽窃者の存在を許せば、先行研究のデータのすべてが信頼できるわけではない、ということになる。
ということは、自然科学であれ人文科学であれ、どんな領域でも研究活動の時間とエネルギーの過半は先行研究のデータの追試に割かれねばならないことになる。資料が消失していたり、文献が散逸していたり、証人が死んでいたりして、追試不可能である研究についてはもうデータとして用いることを断念するしかない。
結果的に、「嘘をつく」研究者の存在を許せば、同業集団は原理的に「追試不能なすべての研究データ」を棄てることを余儀なくされるのである。
それは科学の進歩を致命的に遅滞させるであろう。

だから、私たちは院生たちに「剽窃をしてはいけない、データを改竄してはいけない」と教えるのである。
剽窃者は学術研究の信頼性を毀損することによって、同業者全員によけいな仕事を課役する。
それが職業人としての倫理に悖るとされるのである。

「剽窃」というのは、そのように「先行研究への信頼」を損なうがゆえに断罪されるのであって、「先行研究への信頼」が特に重要とはされない世界では、問題になることではないと私は考えている。
学術の世界以外では、「真実のみを(少なくとも、本人は真実であると信じていることのみを)語らねばならない」というようなルールは存在しない。
重視されるのは、そこで語られていることの真理性ではなく、そこで語られていることの政治性である。
真理性と政治性はまったく水準の違う概念である。
例えば、メディアで流される情報は「真実であるかどうか確証できない場合でも、これを『真実である』と思い込んでくれる人がいると、いろいろと私にとって望ましい政治的変化が期待できるので、それを告知する」というような強い主観的バイアスによって変形されている。
私たちはその主観的バイアスのかかった情報をそのメディアに固有の「情報変形パターン」を念頭において補正しながら読んでいる。その点では、「検閲」の行われている新聞を読むのと変わらない。
それが「メディア・リテラシー」といわれるものである。
同一の政治的事件を報道するときの『産経新聞』と『赤旗』の記事は似ても似つかないが、熟練した読者はその二つを読み比べて「ほんとうに起きたこと」を推理することができる。
新聞やTVのニュース番組が「真実のみを報道している」と思っている人間はいない。
だが、そのことを理由にメディアはニュース報道を止めよ、という人もまたいない。
それは、読み手の側にきちんとした「リテラシー」が備わっていれば、情報は補正できるということをみんなが知っているからである。

音楽の世界では「パクリ」ということがときどき問題になる。
このような「享受する」領域に学術的プライオリティと同じような厳密さを適用して、「パクリ」を指弾することは無意味だと思う。
むしろリスナーの愉しみは、一つの作品がどれほど多くの引用のテクスチュアから形成されているのか、それを腑分けする「リテラシー」の洗練にあるように思われる。
数多くの作品で引用される「古典」がある。
「新曲」から入ったリスナーたちは「ここまで繰り返し引用されるとは、オリジナルはどれほどの名曲なのか・・・」という欲望に点火され、結果的には、その好奇心がオリジナルのセールスを恒常的に支えてもいる。
引用やパロディやパクリは、オリジナルの価値を毀損せず、むしろオリジナルの「神話化」に貢献しているわけである。
プロモーション戦略としてのパクリ。
これは端的に「政治的」なプロセスと呼ぶべきだろう。

私が言いたいことは簡単である。
学術の世界は真理性を基準としており、それ以外の世界は政治性を基準としている。
この二つの領域に同時に適用可能な「統一原理」は存在しない。
もちろん真理が「たまたま」政治的に実現される場合もあるし、真理性が高い命題が「たまたま」政治的に成功することもある。
しかし、「真理は全体化する」というのはヘーゲル以後の近代イデオロギーであり、「学術的正しさ」と「政治的正しさ」のあいだには原理的に相関は存在しないのである。
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