12月6日

2003-12-06 samedi

氷雨の煙る京都今出川の同志社女子大で恒例のイスラエル文化研究会関西例会。
同志社女子大の宮澤正典先生は篤学の史家で、先生の「日本における反ユダヤ主義の研究」はその徹底的な網羅性において余人の追随を許さず、ウチダは院生のころから、長くその学恩を蒙ってきたのである。
その宮澤先生から同志社女子大と神戸女学院大に複数の会員がいることだし(三杉先生も会員なのだ)、関西でも研究例会を持ちましょうというお申し出があったのが数年前のこと。以来隔年で同女と神女でイス研例会を招致している。
今年はほんとうはうちの番なのであるが、東京から来られる会員の方々の足の便を考慮して、京都での開催となった。
主催を逃れた「罰ゲーム」でウチダが関西代表で発表を仰せつかる。
海鳥社のために書きためた『レヴィナス論』から、「レヴィナスとラカン:子どもから弟子へ/知から欲望へ」というお題で一席伺うことにする。
『エクリ』から『鞍馬天狗』まで、『全体性と無限』から『盗まれた手紙』まで、勝手気ままな引用をコラージュして、「子どもと弟子はちょと違う」というお話をする。

もうお一人の発表者はICUからお越しの高木久夫先生。
高木先生のお題は「宗教批判の分水嶺:中世最後のユダヤ哲学者 デルメディコ」。
アヴェロエスの知性単一説のヘブライ語注解をピコ・デラ・ミランドラに伝授したことで哲学史に名をとどめるエリヤ・デルメディコというクレタ出身の哲学者が、宗教と哲学の分離を「大衆」と「賢者」のダブルスタンダードを適用することで果たした経緯を主著『宗教の吟味(ブヒナト・ハダット)』の読解に基づいて概説する、という教養涵養上好個の論件である。
高木先生のお話をうかがって、はじめてスピノザの『神学政治論』という書物の「神学」と「政治」が並列されている理由が腑に落ちた。
興味深かったのは、デルメディコが、「知的訓練を受けた賢者」と「受けていない大衆」を峻別し、形而上学的な宗教批判は「知的訓練を受けていない大衆には許されない」ということを自明の前提として書いおり、そのことは中世の「常識」だったというお話。
哲学は真理性に基礎づけられ、宗教=律法は社会的信認に基礎づけられる。しかし、真理性は必ずしも社会的信認に直結しない。
「真理は全体化する」というのは、近代のどこかの時点で(ヘーゲルだな、きっと)人間社会にもたらされた「臆断」であり、中世においては「真理が全体に共有されることはありえない」ということが常識だったのである。
なるほど。
つまり、「子どもは大人の話に首をつっこむんじゃありません」ということが徹底していた、ということである。
まことにそうだと思う。
そうじゃないと、子どもの側に「ああ、ぼくもはやく大人になりたい」という欲望が喚起されるはずもないからね。
現代社会はどちらかというと「大人が子どもの話に首をつっこみたがる」つまり「子どもが欲望の対象になっている」という相当に倒錯した状態にある。(社会の「マイケル・ジャクソン化」だな)。
『X-men2』と『Daredevil』を続けて見たけれど、どちらもコミックの映画化。日本でも『キューティハニー』とかマンガの「実写化」企画があるそうだが、これって「幼児退行」の徴候なんじゃないの?
昨日のイス研の発表が示し合わせたように、二人とも奇しくも「大人と子どもの違い・大人と子どものダブルスタンダード」ということがテーマであったということにあとで気づいたのであった。

発表後、恒例のごとく「きよす」にて鍋を囲んで懇親会。
東大の市川先生が遅れて到来したので、酌み交わしつつ清談。
そのうち微醺を帯びた手島 ”ヤコブ” 佑郎先生にドライブがかかり、宴席は「ここだけのユダヤ裏世界話」やヘブライ語ジョークの飛び交う「恐ろしくディープなイス研宴会」に雪崩れ込み、京都の夜はしんしんと更けてゆくのであった。
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