12月5日

2003-12-05 vendredi

読売新聞主宰の大学関西フォーラム「教育力を問う」に出席。
基調講演の絹川正吉ICU学長(特色ある大学教育支援プログラム実施委員会委員長)から、支援プログラムの採否基準についてのお話を聞くのがメインの任務である。
西日本の主立った大学の学長クラスの先生がたがずらりと来ている。ウチダのような若造はほとんどいない。
本学の松澤院長もおいでであった。
これまで実施委員会から告知された文書や、それ以前の文部科学省や大学基準協会のアナウンスにも目を通してきて、ウチダ的にはこのプロジェクトの「ほんとうのねらい」がだいたい予測できていたし、このホームページでも何度が論及していたが、それが深く確信された。
この委員会が戦っているのは、何よりもまず「大学教授会を制度的基礎とする大学イデオロギー」に対してである。
ここで「大学イデオロギー」と言われているものの内容は

(1)大学教員は研究業績を上げることを本務とし、教育活動は教員にとって副次的任務である

(2)学生は自学自習の意志と能力を持つものでなければならない

(3)学生は教育サービスの顧客ではない

(4)教育活動の進め方は教員に一任されており、いかなるかたちでも組織的な統制を受けるべきではない

(5)教育活動を適正に査定できる方法は存在しない。不完全な評価方法による教育活動評価はしてはならない

などである。
これはすべてICUで絹川学長自身が遭遇した学内の「改革抵抗勢力」を支えたイデオロギーである。
絹川学長はこれらを「反教育力」と総称していた。
そして、この反対方向のベクトルが「教育力」と呼ばれる。すなわち

(1)大学教員は教育を主務とする

(2)学生は自学自習の意志も能力も十分ではなく、これを習得させるための導入教育が不可欠である

(3)学生はサービスの顧客であり、顧客満足度(CS)の多寡が大学の存廃を決する

(4)教育活動の改善は個人的な努力や犠牲的な時間外労働によってではなく、組織的になされなければならない

(5)たとえ不完全な方法によってであれ教員の教育活動は査定されるべきであり、評価の高い教員にインセンティヴを、評価の低い教員には改善努力の負荷が課されねばならない

今回の支援プログラムの趣旨は、「教育力」の育っている大学をエンカレッジし、「反教育力」のいまだ根強い大学に反省を促すことにある。
その前提には、既存の制度の内部での自助努力を積み重ねるだけではもうどうにもならないところまで、日本の大学はダメになってしまったというシビアな状況認識がある。
その上で、今回の申請書類は紙数の少ないものであったが、わずかな行間から、それぞれの大学の「教育力の差」は歴然とし見て取れた、という感想が採択にかかわった三人から相次いで指摘された。
申請の質的差を決定づけたのは

(1)申請事例そのものは近年発足の制度であっても、それに至る組織的取り組みの長い「前史」があること

(2)取り組みの制度的インフラ(固有の組織、人員、予算)と教育的インフラ(コア・カリキュラムに連動する周辺カリキュラムの充実)が整備されていること

(3)申請事例の「成功」が数値的に明らかなこと

(4)それらすべての活動に学生=顧客を満足させ、すぐれた教育成果を社会や地域にもたらしたいという強い動機づけが貫徹していること

である。
これでは本学の不採択に対して、ウチダから文句の言葉はもう継げない。
本学は「少人数ワークショップ型授業」によるこまやかな学生指導を申請したのであるが、そのさなかにAA制度は否決され、導入教育についての組織的な取り組みの提言は黙殺され、全学FD研修会はなくなり(代わりに人件費削減の説明会が開かれた)、教員評価システムは反対の十字砲火を浴び、FDセンターの立ち上げは先送りされ、少人数教育の制度的「成果」を数値的に示すデータはみつからなかったのである。
これで全学的な取り組みの「真摯さ」を評価してくれと頼むのは「虫がよすぎる」というものであろう。

絹川学長の貴重講演のあとに、今回採択された三校(和歌山大学、金沢工業大学、大阪女学院短大)のそれぞれの学長が、採択されたプロジェクトに至る経緯を報告した。
どこも数年がかりで学長がトップダウンで主導して、学部エゴや文部科学省の干渉を退けて制度的インフラを固めて予算と人員をそこに集中し、全学的にカリキュラムを整備してリンクさせ、その成果が数値化できるようにデータを取り、その結果を申請していた。
いかなウチダの修辞的技巧をもってしても、時計の針は戻せない。

ウチダがさらに驚いたのは独法化以後に「私学との熾烈な競合を生き残る」ことの困難さを実感している国立大学の取り組みの真剣さである。
「いま改革しなければ、2010年にはうちの大学はなくなっている」というシビアな未来予測を持って取り組んだという和歌山大学学長の列挙した(申請事案以外の)制度改革のラインナップの多彩さと大胆さに驚かされた。
だが、それ以上に驚いたのは、シンポジウムのあとフロアから発言した立命館アジア太平洋大学学長からの、「そんな手ぬるい改革で満足しているようでは国内の競争には勝ち残れても、海外の大学との競争には勝てない」というきびしいコメントであった。
これだけの努力に対してさえ「そんなんじゃ、国際競争に勝てない」という危機感をもって大胆な教育実践を試行している大学が一方にある。
本学はそのはるか後塵を拝するのみで、そのためのとっかかりの初歩的改革についてさえ、学内合意形成に膨大な時間とエネルギーが費消されているのである。
3時間のセミナーを聴いて、いつも元気なウチダも、すっかり意気消沈して北新地のネオンのなかをとぼとぼ帰路に就いたのである。

しかし、ひとつだけ楽観的な情報があった。
それはますます自学自習能力を失い学力低下にあえぐ受験生たちは、「大学選び」においても、その知的無能をいかんなく発揮して、改善努力をしている大学と努力していない大学の「区別があまりついていない」という河合塾の評価研究部長からの報告である。
現に、あれほど先駆的な大学改革を断行したFD先進校であるICUは今年志願者が減少しているそうである。
ビジネスの鉄則は「マーケットは間違えない」ということであるが、大学ビジネスだけはそうでもないらしい。
だが、「志願者は自助努力をしていない大学を選ぶこともある」と聴いて「喜ぶ」というのは大学人としては自己の存在価値そのものを否定するに等しいふるまいではあるまいか。
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