12月4日

2003-12-04 jeudi

イスラエル文化研究会での学会発表が明後日に迫ったが、何の準備もできていない。
そもそも逆さに振っても準備する時間なんか出てこないんだから、当たり前だけど。
適当に一時間ほど小噺をつないで・・と思ったが、聴衆はコアでディープな「ユダヤ学」のみなさんである。
うー、困った。
一時間の口頭発表ということは400字詰め原稿用紙で60枚、ということである。
それをいまから二日のあいだに書くためには文字通り寝食を忘れねばならぬが、今日は合気道のお稽古、明日は学長命令で業務出張である。
とほ。
もちろん、そんな発表を引き受けた私が悪いのである。
でも、イスラエル文化研究会の理事の職にありながら、理事会すべてに欠席し、研究会にも二年に一度しか顔を出さないという態度の悪さをどこかでトレードオフしておかないと、この先「ユダヤ学」の世界で生きてゆくことは、いかに厚顔なウチダといえども容易ではないのである。
文春から出すはずの「ユダヤ文化論入門」のネタも、学会の諸先輩がたから聞きかじった耳学問と、諸先輩のご高著からの引用で満たされているわけであり、ときどきは先輩方のお肩を揉んだり、「あ、お流れ頂戴します」というような仁義をきちんと切っておかないと、

「あー、ウチダくんね、キミはヘブライ語もイディッシュもできないんだし、イスラエルにも東欧にも行ったこともないし、ちゃんとしたタルムードの師匠についたこともないし、だいたい第一次資料なんかひとつも読んでないんだから、ユダヤ教について知ったようなことをね、本に書くのは、これは学者としてね、いささか節度を欠くふるまいと言わざるを得ないんじゃなかな」

というようなご叱責をお白州で拝聴しなければならないことは火を見るより明らかなのである。
そういうクリティカルな局面を回避するためにも、土曜の学会発表はなんとしても成功させねばならぬのであるが・・・

『映画の構造分析』の書評がぱたぱたと出る。
朝日新聞社刊「一冊の本」で、脚本家の鎌田敏夫さんが「秘蔵の書」に挙げてくれたし、週刊金曜日ではドキュメンタリー作家の巖谷鷲郎さんが「絶賛」してくださった。
どうもありがとうございます。
うれしいことに、どちらの書評も「映画作りの現場の人」からのものである。
その現場の立場から、お二人とも、映画は一人の人間が中枢的に統御するものではなく、スタッフ、キャストにはじまり、興行、パブリシティ、批評、映画研究に至る「映画を上映可能にし、映画についての言及を可能にする」すべての人々の「関与」によって織りなされるテクスチャーであるという考え方に共感を示してくれた。
当たり前のことのようだけれど、そういうふうな前提に立つ映画研究書はわりとレアなのである。
だって、映画の起源をそんなふうに時間的にも空間的にもでらために散乱させてしまうと、「映画のテーマ」とか「ねらい」とか「監督の言いたいこと」とかに焦点化した批評は不可能になってしまうからである。
しかし、つねづね申し上げているように、(映像作品であれ国際政治のプロセスであれ)それが「絡み合い」である以上、それを読み解くときには、関与させるファクターを多くした方が「話がややこしくなって、解釈は楽になる」のである。
この「話がややこしい方が、解釈は楽になる」という考え方は世間のみなさまにはなかなかご理解頂けないのであるが、これはほんとうのことである。
ま、「楽になる」というよりは「楽しくなる」という方が正確か。

話は簡単にしようとすると「無理」が出る。
無理をしてはいけません。
無理をしないで、「ま、そういうことも、あるわな」というふうに、適当に受け容れてしまう。
考えれば当たり前のことなのだが、基礎データとなるファクターが増えれば増えるほど、仮説は立てやすい。
当然でしょ?

人間が一人だけしかない状況で「人間とは何か?」ということを定義するのはたいへんむずかしい。
でも二人いると、その二人の解剖学上の組成の差とか、考え方の違いとか、情動的反応の違いとかを捨象して、「共通する要素」を抽出できる。
サンプルが100人いれば、「共通する要素」はもっと減るし、100万人いれば、もっと減る。
つまり、データが増えれば増えるほど、「これは何か?」を言い当てるための言葉は短くなるのである。

というわけで、学会発表は「レヴィナスとラカン」というお題なのであるが、これは

レヴィナスだけを読んでも分からない。

ラカンだけを読んでも分からない。

しかし、レヴィナスとラカンを併読すると、お二人が「同じこと」を言っているということが分かる、という仕掛けを利用した考察である。
「同じこと」を同じ言葉で言っているとよく分からないが、「同じこと」を違う言葉で言っていると、むしろ言いたいことがよく分かる。
そうですよね。
それは一軒の家を二人で前から見るより、一人は後ろにまわって見た方が、家についての記述がより精密になるというのと同じことである。
「しかし、ウチダくん。そもそもこの二人が『同じこと』を言っている、ということがどうやってキミには分かるのかね?」
それは、ひ・み・つ。
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