12月3日

2003-12-03 mercredi

ようやくふつうの生活に復帰する。
まず歯医者に行く。奥歯の治療はこれでとりあえずおしまい。
あとは必死でブラッシングするだけである。

次は下川先生のところでひさしぶりに舞囃子『融』と謡『通小町』のお稽古。
舞囃子はまだ「とりあえず道順を覚えた」という段階である。
これからこれをただの「歩行」から「舞」へ進化させねばならない。この距離がとてつもなく遠いのね。
『通小町』は小野小町に騙されて憤死する深草少将の役である。
女に騙されて「あな、口惜しや」と煩悩の犬となってわんわん騒ぐという男性の気持ちはウチダには痛いほど、切ないほど、骨がきしむほど分かるので、この感情移入が成功すれば、たいへんよい素謡になるであろう。
私の先に、おばさまがたが大挙しておられたので、私の順番が来るまで下川先生の助手となって、みなさまのために地謡をあいつとめる。
『邯鄲』『草紙洗小町』『三輪』。
下川先生の方を見ないまま(こちらは謡本と首っ引きなので、そもそも先生の方を見ている余裕がない)、先生とぴったり呼吸を合わせて謡をしなければならぬ。
これは「気の感応」の稽古としてはたいへんに有効なものである。
地謡では地頭(じがしら)より先に出るというフライングは厳禁であるが、決して遅れてはならず、終わるときはぴったり一緒、という条件がある。
下川先生は「体感の発信力」がたいへん強い方なので、こちらの感度をわずかに上げるだけで、無理なく身体を先生の呼吸に合わせることができる。
多田塾の若い皆さんにも気の感応のお稽古として謡曲のお稽古をぜひご推奨しておく。
身体運用の稽古もかねてできるし、合気道と能楽はたいへんに「相性がよい」。これは声を大にしてアナウンスしておきます。

稽古のあとは三宅先生のところへ駆け込む。
昨日から左肩に激痛が走って止まらないのである。
一瞥して先生が「おおおお、これはひどい」と顔を曇らせた。
なんだか骨盤からがたがたのようである。
30分ほど三宅先生にしゃかしゃかと修復して頂く。
左肋骨あたりの痛みはすっと消えたが、まだだいぶあちこち傷んでいるようなので、明後日も来なさいと厳命される。とほ。

家に戻ると人文会から本が届いている。
人文会というのは「日本教養主義最後の牙城」であるところの良心的出版社の連合体であり、「教養なき教養主義者」であるところの不肖ウチダもその最終戦線死守のために「猫の手も借りたいときの猫の手」として先般動員して頂いた経緯はご案内の通りである。
その「猫の手」の貢献が評価されたのか、『人文書のすすめ-人文科学の現在と基本図書』というこの書物の「基本図書リスト」にウチダ本がいくつか取り上げられていた。
なんとなく、関東軍総崩れのときに飛行機に乗って奉天から脱出する参謀本部が残留部隊のぼおっとした中尉あたりに「キミを二階級特進で少佐に任官するから、戦線を死守するように」と訓令を垂れて逃げ出す光景が目に浮かぶようであるが(しかし、なんだかイマジネーションが傾向的だな)、それでも「人文科学の基本図書」に選ばれるというのはうれしいものである。
ちなみにご選定頂いたのは

「現象学・実存主義」の枠で「タルムード四講話」(レヴィナス)と「レヴィナスを読む」(マルカ)と「レヴィナスと愛の現象学」

「日本の思想(近代・現代)」で「ためらいの倫理学」

「現代社会批評・文明批評」で「おじさん的思考」

「ポスト構造主義と文明批評」で「現代思想のパフォーマンス」(これはナバちゃんとの共著)

「セクシュアリティ論・男性論」で「女は何を欲望するか」

とけっこうランダムに選ばれている。
音楽チャートに例えて言えば、「バロック」と「民謡」と「現代音楽」と「パンクロック」と「演歌」でチャートインしたような感じである。
そればかりか「書店アンケート」による「注目する著者」にまでご選定頂いた。
ちなみに書店員の方々がいま注目されているのは

斉藤環、内田樹、池田晶子、加藤陽子、小此木啓吾、斉藤孝、小熊英二、アレックス・シアラー、武田徹、森巣博、菊池成弘、池上彰、日垣隆、宮台真司、柏木恵子、ヴィゴツキー

というラインナップである。
どういう基準で選定されているのか、教養のないウチダにはまるっきり見当がつかないのであるが。

不肖の弟子のホリから電話があって、「スカパーの番組に出ないか」と言ってきたので、「やだぴょーん」と断る。
ウチダはテレビには出ない。(このあいだ、ちょっと出たけど、わかりっこないから、よいのである)
別にテレビというメディアに本質的な疑念を呈しているとか、モーリス・ブランショ先生の先例に倣ってとか、そういうたいそうな理由ではなく、単に世間に顔を知られたくないだけである。
つねづね申し上げているように、そのへんのコンビニの店員さんに
「ね、さっきから298円の豚バラにしようか315円の豚バラにしようか五分も迷っているあの優柔不断な中年男、こないだテレビに出てたウチダつうオヤジじゃない? あ、エバラの『キムチの素』買った。今日きっとキムチ鍋よ。ビンボくさ」
とか言われたくないだけである。
ウチダは友人知人以外には誰にも顔を知られず、静かにお気楽人生をエンジョイしたいのである。
『寝な構』の裏表紙には顔写真が出てるけど、あれは本人とまるで似てないから(10年前の写真だし)、ノープロブレムなのである。はっは。
--------