12月2日

2003-12-02 mardi

大江健三郎が『リベラシオン』にイラクへの自衛隊派遣に反対するエッセイを寄稿したという記事が朝日新聞に出ていたので、さっそくインターネットで Liberation の当該記事を読んでみることにした(まことに便利な時代になったものである)
『リベラシオン』はフランスの左翼系の新聞で、私はフランスにいるあいだはだいたい毎日これを読んでいる。
かなり質の高い国際関係分析記事が読めるので、フランスで『リベラシオン』を数週間読んでから日本に帰って来て、日本の新聞を手に取るたびに、そのあまりの程度の低さに愕然とする・・・という経験を毎度繰り返している。
たしかに彼我では「クオリティ・ペーパー」の発行部数も読者層もまるで違うのだから、同列に論じることはできない。(『リベラシオン』の読者は朝日新聞の読者の数十分の一にすぎないであろう)。
それにしても『リベラシオン』のような新聞が存在しないことはわが国にとって不幸なことであるとつねづね思っている、その『リベラシオン』に大江健三郎が寄稿した。
何を書いたかというと、「私は怒っている」という題名のエッセイである。
それほど長いものではない。原稿用紙4,5枚分というところのものである。
結論から申し上げると、こういうものを『リベラシオン』に寄稿するのは、ちょっとまずいのではないかとウチダは思う。
要約すると、大江の主張は次のようなものである。

日本は軍国主義の侵略戦争を反省して、戦後アメリカから扶植された民主主義を奇貨として憲法と教育基本法を備えた民主国家となった(その戦後日本の民主的エートスを形成したのは渡辺一夫と丸山真男である)。しかるに、小泉首相はブッシュ大統領の世界戦略に唯々諾々と従い、日本をテロリストの標的とするような愚かな政治的選択に踏み込んでいる。アメリカの世界戦略に抗して、日本は「批判的立場」(posture critique)を取り、イラクに対しては人道支援に限定すべきである。

私は一読して「うーむ」と唸ってしまった。
困ったなあ。
これが朝日新聞の「読者の声」欄への投稿であれば私も涼しく受け容れるであろう。
しかし、掲載されたのはそういう学級委員的な「ポリティカリーにコレクトな」発言を列挙するためのメディアではない。
大江に期待されているのは、日本国民のイラク問題に対するスタンスはどうなっているのであろうかというフランスの知識階級の知的要請に応える仕事である。
これを読んで、現代日本の知識人の歴史認識と政治感覚のレベルが「なるほど、この程度なのね、分かった、分かった」と思いこんでしまうかもしれない数十万のフランス知識人が読者なのである。
もう少し何とか書きようはなかったのであろうか。
大江の善意について、私は一片の疑念も持っていない。
だから、このテクストを読んで「ああ、日本にも世界の平和を念じている心優しい人がいるんだなあ」とフランス人読者の過半が信じてくれるであろうという見通しに私は100%同意することができる。
しかし、「日本人の批評的知性というのは、なかなかレベルが高いなあ」と思ってくれる読者がまず絶無であろうという見通しにも、哀しいかな同時に同意しなければならない。
大江健三郎は94年にノーベル文学賞を受賞した、日本を代表する作家であり、世界の読者からは現代日本を代表する知性とみなされている。
その「日本を代表して発言する(人、とみなされがちな)お立場」というものを大江さんにはもう少しご配慮頂けなかったであろうか。

私がこの短い文章の中で「困るよな」と思った点はいくつかある。
一つは、日本の政治的風土が「不幸な戦前」から「ハッピーな戦後」に、アメリカ軍の占領によって切り替わったという歴史観をさらりと書いてしまっていることである。
日本戦後史について大江はこう書いている。

「子供時代、10歳までを私は第二次世界大戦の苦痛のうちに成長した。私は日本の超国家主義を味わった。戦後、民主制と民主主義的理念が民主制のうちの最良の部分、すなわちアメリカの民主制によって日本に扶植された。そして、今度は日本が憲法と教育基本法を備えた民主国家となったのである。以来、日本人はアメリカの大衆文化、映画や音楽によって影響されてきた。そのことには何の問題もない。日本人はそれでおのれのアイデンティティを失いはしなかった。」

これはいくらなんでも日本戦後史概観として「簡単すぎない」だろうか。
この単純な戦後史のフレームからでは、大江自身の次の現状分析をつなぐ理路が見えてこない。

「小泉首相は再選され、イラクに兵士を派遣しようとしている。多くのジャーナリストが首相に質問をするが、彼の答えはつねに曖昧だ。イラクにおける戦争の初期から、首相はアメリカのジョージ・G・ブッシュ大統領の政策に同意してきた。『この戦争は正しい戦争である』と彼は繰り返した。ドイツやフランスはさまざまな意見を採用したが、日本はそうしなかった。(…) 日本はアメリカの安全保障政策に追随している。私の国は追従しているのである。私はそれゆえ怒っている。これまでずっと怒ってきたように今も怒っているのである。」

お怒りは分かるとして、どうして、「最良の民主制」をもたらした当のアメリカが、今や日本を地獄の渕に引きずり込むような「邪悪な国家」になってしまったのかその経緯について、大江は一言の説明もしていない。
渡辺一夫や丸山真男の思想的事績を称える行数があれば、むしろ、こちらの方を説明する方が思想的には喫緊のことなではないのだろうか。
もし、この理路の解明を大江自身が特段の思想的急務と感じていないとしたら、それを説明できるロジックをウチダは一つしか思いつかない。
それは、「ニューディーラーたちの頃のホワイトハウスはいい人たちばかりだったが、ブッシュ大統領のホワイトハウスは悪人ばかりである」という「為政者有責論」の立場に立つことである。
たしかに、それなら話は簡単だ。
アメリカは、そのときどきの為政者が「いい人」であれば「いい国」であり、「悪い人」であれば「悪い国」になる。
国際問題の当否の議論は為政者の人間的資質についての判定だけで足りるであろう。
ブッシュ大統領が悪人であり、小泉首相がボンクラだから、「世界と日本はこんなことになってしまったのだ」と「怒っている」のというなら、話はよく分かる。
だって、人間はシステムやプロセスに対して「怒る」ことはできないからである。
人間が怒ることができるのは、人間に対してだけである。
人間の邪悪さと愚鈍に対してだけである。

たしかに、国際政治というのは、為政者の個人的資質で左右されることもある。
だが、それ「だけ」ではない。
仮にもし、非常に単純な世界観と暴力的な資質をもつ人物がある国の独裁的権力者である場合、そのような人物を国家のリーダーとして「戴く」ことに対していくばくかの国民的合意があるか、あるいは周辺諸国の「お家の事情」というようなもののサポートがあるか、あるいはその両方があるか、なんらかの人格素因「以外の」ファクターによって彼は国際政治のカードプレイヤーの立場をキープしている。
単に邪悪でボンクラであるだけでは、なかなか民主主義国家で権力の座を射止めることはできない。
その場合、どうしてそのような国民的「合意」が成り立ったのかという問いや周辺諸国がこの邪悪な指導者をサポートするのはどういう「事情」によるのかという問いを次々政治過程の決定要因として繰り込んでゆくと、国際政治の話はどんどん複雑になる。
誰が「ギャング」で誰が「保安官」なのかがどんどん不分明になる。
そして、残念ながら、多くの方々はこのややこしい話をこりこりと解明するという知的負荷を嫌う。
彼らはすぐに机を叩いて、「いいから、話を簡単にしてくれよ! だから、悪い奴は誰なんだ?」と言い立て始める。
しかし、まさにこの種の「いいから、悪い奴は誰なんだ?」という「禁句」を自制できない人々が国際政治のプロセスをより混乱させているのではないかと私には思われるのである。
現にいま国際政治で解決のむずかしい重大な問題を引き起こしている人々は、ほぼ例外なく「政治的布置を敵=味方図式に過度に単純化するひとびと」(アメリカの大統領やイラクの元大統領やさまざまな権力的国家やテロ組織に集う「怒れる人たち」)である
とりあえず

「話を簡単にして」
「敵味方をはっきりさせて」
「敵に向かって怒りをぶつける」

という戦略は、こと国際政治プロセスに限って言えば、非常にコストパフォーマンスの悪いやり方であるばかりか、むしろそのような単純化戦略そのものが国際政治を解決不能のデッドロックに導いているということについて、世間の常識ある方々のあいだでは、いちおう基本的な合意ができているのではないかとウチダは思う。
その上で「私は怒っている」に始まる大江のエッセイが、「話を簡単にして」、「敵味方をはっきりさせ」「敵に怒りをぶつける」という言説戦略を採択していることにウチダは不安を覚えるのである。
大江はこのとき、彼が批判している当の対象たちと、「問題を単純化したい」という節度のない欲望に屈服している点であまりに似すぎていないか。
ウチダにはよく分からなくなってしまうのである。
大江は日本の政治過程については、こう書いている。

「先の衆議院選挙でこの政策に反対した左翼党派はその議席の半数を失った。なぜか? それは日本には批判勢力がもはや存在しないからである。(il n'y a plus de force critique)。首相はその行動に何の掣肘も加えられていない。彼はすべてを為すことができる。」

事実の報道としてはずいぶん不正確な書き方だと思う(「すべてを為すことができる」と太鼓判を押されたら、小泉首相だってびっくりするだろう)。
民主党は(いろいろと党内議論があるようだが)イラク派兵に反対の立場で選挙戦に臨んで、得票数を伸ばした。
そのことに触れなければ、日本の政治状況にうといフランス人は、日本にはイラク派兵を支持する「従属派」のマジョリティと、それに反対して惨敗を喫した「敗北主義的」左翼しか存在しない、というふうに考えてしまうだろう。
でも、それは日本の現状とだいぶ違う。
そもそも、日本の国内政治の記事なんて、フランスのメディアにはほとんど出ない。
検索してみたけれど、過去一ケ月のあいだに『リベラシオン』が載せた日本関連記事は六本しかない。
うち一つが大江のエッセイ、残り4本はイラク復興プロセスを報じた中で諸国名のなかにまじっているだけで、日本国内政治についての記事は1本だけである。
それは11月11日の衆院結果の報道で、そこには、「自民党の退潮は、小泉の『冒険主義的』外交政策が反対勢力によって拒否された結果として解釈される」と書いてあった。
『リベラシオン』の読者はどちらを信じればよいのだろう。
日本の有権者の相当部分がイラク派兵に反対したせいで小泉政権の支持者が減ったという事実か、「日本には批判勢力がもはや存在しない」という大江の断定か?
もちろん、「民主党などという政党はいかなる意味でも『批判勢力』ではない」と大江が判断しているとしたら、その考え方は尊重されねばならないとしても、やはりこれを「事実」として記述することは自制すべきだろう。
結果的に大江のエッセイは、『リベラシオン』の読者に「日本人は首相から有権者まで総じて米国追随のボンクラであり、ひとり大江健三郎だけが左翼的批評性の孤塁を守っている」という(事実とは微妙に異なる)印象をフランス人読者に残す以上の政治的効果を持っていないようにウチダには感じられたのである。

いやみになるから、もう止めておくが、最後にもう一つだけ、私が大江に疑義を申し述べたいのは、彼がこのエッセイで何回か用いている「批評的」(critique) ということばの使い方についてである。
少なくとも、このエッセイを徴する限り、大江にとって「批評的である」とは「左翼的である」とほぼ同義であり、文脈的には「自民党の政策とアメリカの世界戦略に反対すること」とほぼ同義である。
私はこのことばにこのような貧しい定義を与えることには反対である。
「批評的である」とは、私たちの前にいま映現している事象は、どのような前史をもって私たちの前に顕現したのかを問い、なぜ私たちには世界は「このように見え」、そうではないようには「見えないのか」を問う、ということである、と私は考えている。
その上で、大江のプレゼンテーションの仕方は、あまりに単純で、あまりに既知のフレームワークに泥んでいるがゆえに、十分に「批評的」たりえないのではないかと怪しむのである。
私たちは「左翼的」であったり、アメリカの世界戦略に反対することが、ただちに論者の「批評性」を担保すると信じられるような牧歌的な時代をずいぶん前に通り過ぎてしまった。
私はそう思っている。

繰り返し言うとおり、私は自衛隊のイラク派兵に反対であり、憲法9条の改訂に反対であり、自民党の外交政策とアメリカの世界戦略の有効性と道義性に深く懐疑的であり、かつ大江健三郎が善意の人であることに一抹の疑いも抱いていない。
その上でなお、大江健三郎はこんなふうに書くべきではなかった、と思う。
大江健三郎は海外のメディアに日本の知的世論を代表して、署名原稿を求められるというレアな立場にある人間である。
そうである以上、「大江健三郎は大江健三郎を代表する」だけでは済まない、ということを分かって頂きたい。
彼は「彼の反対者をも含めて日本を代表する」という個人としては過酷な責務をエクストラで負っているのである。
そのような「過剰なる責務」を負っている人間に向かって、「あなたの責任ではない債務の支払いがよくない」と責め立てるというのは、まことに非人情のそしりをまぬかれぬことを熟知した上で、ウチダは非人情に徹してあえて苦言を呈するのである。
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