12月1日

2003-12-01 lundi

週末は東京で池上六朗先生との二日連続対談。
土曜の稽古を終えて、そのまま雨の中を東京へ。
午後7時から新宿の「由庵」で「豆乳鍋」(美味なり)というものを食べながら、もうどんどん対談が始まる。
ごいっしょするのは毎日新聞の中野さんと三宅先生と赤羽さん。
三軸修正法を世にお伝えする「スポークスマン」というのが私に与えられた歴史的使命であるので、対談と言っても、私が池上先生のお話をうかがって、「それって、こういうことですか?」というふうにパラフレーズするという「ほぼインタビュー」形式のものである。
しかし、三軸はなかなか簡単に「そういうこと」にまとめることのかなわない治療原理である。
それは別に三軸が「ややこしい」という意味ではなく、むしろ、人間の身体のつくりが「ややこしい」ということに起因している。
現実はややこしい。
ややこしいがゆえに、それを簡単に説明するために多様な仮説が生まれる。
仮説の豊かさを担保するのは現実のややこしさである。
ところが、世の中には現実観察から仮説に進むのではなく、仮説を「まず」受け容れて、それを通して現実を「単純化して」見る、という方が少なくない。
その方がたしかに知的負荷は軽減される。
そういう方たちは、彼らの採用している単純な仮説とぴたりと一致する単純な現実ばかりを探し求めようとし、その仮説になじまない現実については、「そんなことはありえない」という、いささか排他的な態度を取る傾向にある。
しかし、それは話が逆ではないか。
現実は仮説に適合するためにあるのではない。
仮説を無限に生み出す母胎として「いかなる仮説によっても汲み尽くせない」現実が存在するのである。
カール・ポパーの定義によるならば、科学者とはみずからが提出した仮説を証明する事例をではなく、仮説を反証する事例を探求し、それによって、仮説をよりカバリッジの広いものに書き換えることを優先的に配慮する人間のことである。
現実が「いかなる仮説によっても汲み尽くせない」と思っている人間が現実に直面したときに、いちばんよく使う言葉は何か。
それは

「そういうことも、あるかもしれない」

である。
というわけで、池上先生と私の「対談」は
池上「こういうことがあるんだけど、どうしてなのか、うまく説明できないんだよね」
ウチダ「ほんとですねー、なんなんでしょうね」
というやりとりを軸に主題に転々とするのでありました。
おお、これがいい。中野さん、タイトルこれにしません?
「そういうことも、あるかもしれない」

翌日曜も午前10時から午後5時半までノンストップ対談。
最後に池上先生に三軸を調整してもらって、三宅先生と新幹線に乗り、ミニ宴会をしながら芦屋に戻る。

さすがに二日にわたって、池上先生とハイテンションな話を続けたせいで、身体がぐるぐるしてきたらしく、月曜の朝に発熱。
午前中のフランス語の授業のあいだに、身体のふるえが止まらないほどに急に熱が出てきて、午後の授業を休講にして、そのまま這って家に戻り、ドクター佐藤からいただいた風邪薬と解熱剤をのんで、午後7時まで爆睡。
頭から水を浴びたような大汗をかいて目が覚める。
パジャマ、シーツ、枕カバー、毛布を洗濯機に放り込んで、寝具をセットしなおし、また爆睡。
結局、12月1日は24時間のうち17時間寝ていた。
朝起きると熱は下がり、おなかがぺこぺこになっていた。
池上先生にアラインメントの狂いを直して頂いたせいで、こんな反応が出たのかもしれない。
うーむ、そういうことって、あるかもしれない。
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