アナグラムのことを書いたあとに、ソシュールのアナグラム論についての言及がジョナサン・カラーの『ソシュール』(岩波ライブラリー)に収録されていることを思い出したので、引っ張り出して読んでみる。
カラーによると、晩年のソシュールはアナグラムについて膨大な研究ノートを記して、ラテン詩人たちがその詩句のうちに固有名のアナグラムを意図的に隠し入れた、という仮説の吟味に当てた。
例えば、ルクレティウスの『物性について』の冒頭13行はヴィーナスに対する呼びかけの詩句であるが、その中にソシュールは Aphrodite(これはヴィーナスのギリシャ語名)のアナグラム三つを発見した・
これは意図的なのか、偶然なのか。
ソシュールはそこではたと困惑してしまった。
というのは、もしアナグラムが修辞法の一部であるとするならば、古典の詩論の中に一つくらいは「アナグラムによる修辞的効果」についての言及があるはずなのだが、ソシュールの強記博覧をもっても、アナグラムの詩学について書かれた文献は一つも発見できなかったからである。
結果的にソシュールはこれが意図的な修辞的仕掛けなのか、それとも無意識的な音韻選択の結果なのかを決定することができず、その仮説の公刊を断念したのである。
カラーは(まあ、このひとはたいへん理知的な人であるから当然だけれど)、アナグラムというのは「あるキーワードが無意識の中に残存して、後続の語の選択を決定するときにバイアスをかける」という分析的な解釈をして、それにとどめている。
カラーがあげているのは例えば、ボードレールのこんな詩句である。
Je sentis ma gorge serree par la main terrible de l'hysterie.(私は喉がヒステリーの恐ろしい手で締め付けられるのを感じた)
sentis の is と terrible の terri をつなげて読むと isterri となり、これは hysterie と同音となる。フランス語では h は発音されないからね。
もう一つ挙げているはホプキンズの詩句。
As kingfishers catche fire, dragonflies draw flame
As tumbled over rim in roundy wells
Stones ring; like each tucked string telles, each hung bell's
Bow swung finds tongues to fling out broad its name.
(カワセミが燃え上がり、トンボが炎を引き寄せ/丸い井戸のへりを超えて転がる/石が鳴り響くように、つままれた弦が響くように、つられた鐘の胴が揺れておのが名を告げるように)
ここにカラーは二行にわたって散乱している k/r/i/s/t(=Christ:キリスト)の音と、最終行の fl/ame と最初の行の flame(炎)の対応をアナグラムの例としてあげている。
そして、
「察するに詩人は豊かな木魂式の音声の織りなしを欲して、変綴(アナグラム)を創り出すこととなったのである。」
と結論している。
なるほど。
しかし、ここには、詩人が意図しなかった組み合わせで文字列を入れ替えて、そこに宿命的なメッセージを読んでしまう読者の側の欲望についての言及が何もない(私たちが問題にしているのは、そのことである)。
カラーは書き手に修辞的意図があったのか、それは無意識の効果なのかだけを論じていて、読み手の無意識の積極的な参加については何も書いていない。
それでよろしいのであろうか。
それにいちばん問題なのは、カラーが挙げているのはすでに存在する文字と同じ文字が散らばりながらも「正しい語順で並んでいる」事例だけだということである。
「トマト・ソース」の看板を描いたひとは、そこに「トーマス・マン」のアナグラムを読み出す読者のいることを想定していないし、「後楽園」の名をつけた江戸時代の作庭家は、20世紀の終わりにそれを「うんこくらえ」と読む批評家が出現することを予期していないし、TV欄の文字列を決めるプロデューサーはそこに「合気会二段」のようなでたらめな語順でアナグラムを読み出す人のあることを想像だにしていない。
カラーにおいて自明の前提は、「時間は過去から未来にむけて不可逆的に流れており、人間は書かれた文字をその順番に読んでおり、メッセージは書き手から発信されて読み手に受信される」という信憑である。
ほんとうに私たちはそんなふうに文字を読んでいると断定してよろしいのであろうか。
ウチダはちょっと、ちがうんではないのと思う。
時間はときどき未来から過去にむけて逆流し、私たちはしばしば文字を逆に読む。
そのような「揺れ戻し」というか、時間の「しゃっくり」のようなものを私たちは現に頻繁に経験している。
人間は「いろいろなことができる」生物である。
その可能性を押し広げるようなデタラメ解釈の方が、ウチダは好きである。
カラーはアナグラムへの固着をソシュールのロゴス中心主義からの離脱の欲望の徴候と解釈している。
これはその通りであるとウチダも思うが、夫子ご自身の解釈を無意識なロゴス中心主義が繋縛している可能性についても、もう少し吟味されたほうがよかったのではないか。
(2003-11-28 02:00)