11月28日

2003-11-28 vendredi

以前読んだ北杜夫のエッセイの中にこんな話があった。
大学生のころ、北杜夫はトーマス・マンに熱中して、『ブデンブローク家の人々』や『魔の山』を耽読していた。
ある日、田舎の駅に降り立ったとき、突然「ぎくり」とした。
「ぎくり」とした理由が分からないので、辺りを見回したら、酒屋のところに「トマト・ソース」という看板の文字が読めた。
というお話である。
これは人間のアナグラム解読能力がどれほど高いかを示す逸話である。
「トマト・ソース」には「ト」、「-」、「マ」、「ス」、「・」、「マ」、「ソ」の6文字がちゃんと含まれている。(「ン」と「ソ」を読み違えるというところが、じつにリアルである)。

フェルディナン・ド・ソシュールは晩年に『一般言語学講義』で論じた記号学に対する関心をまったく失ってしまい、ラテン期の詩人たちのアナグラム解読に熱中した。
ソシュールの研究者は多いけれど、ソシュールのアナグラム理論を主題的に研究したものをウチダは(丸山圭三郎先生のソシュール評伝をのぞくと)、読んだ記憶がない。外国語の文献にはあるのかもしれないが、日本語で書かれたものを寡聞にして他に知らないのである(誰か知っていたら教えてください)。

アナグラムというのは、一続きの文字列のうちに同じ文字を構成要素とする別の文字列を読みとることである。
そこに人々はその語の「隠された第二の意味」や「宿命」を読みとった。
よく知られた例にナイチンゲールのアナグラムというのがある。
Florence Nithingale の綴り順を変えると
Flit on, cheering angel 「軽やかに飛べ、慰めの天使よ」
になる。
よくできた話である。

アナグラムの天才というと小田嶋隆である。
オダジマ先生は高校生のときに「後楽園」のアナグラムが「うんこくらえ」であることを発見したことを契機にこの道に進まれたのであるが、それ以後も重要な著書の重要な知見はほぼ例外なしにアナグラムによって得られた啓示に基づいている。
デビュー作『我が心はICにあらず』から、『仏の顔もサンドバッグ』、『日本問題外論』、『かくかく市価時価』にいたるオダジマ先生の著書のタイトルはほとんどすべて「駄洒落」になっており、かつその駄洒落は批評的なダブルミーニングを持っている。

アナグラムには、主題研究や構造分析と違って、固定した読みの水準というものがない。
どの文字をどういう順番に拾って並べ換えるのか、その選択に通常の意味でのリテラシーは関与しない。
だって、リテラシーというのは「書かれた文字列」を読解する能力であって、「書かれていない文字列」をつくりだす能力のことを指す言葉ではないからである。
しかるに、アナグラムにおいて行われているのは

(1)目の前にある文字を時系列順に読まずに、同時に読み、
(2)それを可能な限りランダムに組み合わせて
(3)その中から意味の通る可能性のあるものを列挙し
(4)そのうち、とくに強い含意をもつものを選び出す

という仕事である。
これを、通常の意味でのリテラシーが発動するより「前に」済ませているのである。
「トマト・ソース」を「読んで」から、「あ、これって『トーマス・マン』と文字の構成要素が似ているな」と思ったのであれば、決して「ぎくり」とはしない。
北杜夫は「トマト・ソース」の文字を「見た」だけで、まだ「読んで」はいないのである。
それは風景の中のひとつの「図像」として、リテラシーの及ぶ領域のはるか後景に、ぼわんと漂っていたにすぎない。
にもかかわらず、北杜夫の中のアナグラム読解能力は瞬間的にその図像記憶を解析し、「チェック! キミにとって重要なメッセージが風景のなかに隠されていたぞ」という「警鐘」を鳴らしたのである。
その警鐘に反応して北杜夫は「ぎくり」としたのである。
このアナグラム解読こそ、「身体が読む」という機制の典型的な事例ではないかと私はひそかに考えているのである。

というようなことを私がつらつら書いているのは、今朝のTV欄を読んで「ぎくり」としたせいである。
元の文字列を採録するので、私がそこからどんな文字列を読み出して「ぎくり」としたのかを当ててください。

「ちちんぷいぷい 冬の
日本海の珍味?海の幸
を丸ごと味わう生中継
▽美容健康にこだわる
人々が集まる会とは?
▽百貨店気合ニュース
手頃な値段で買える
本格的な一人鍋特集
▽芸能ダレ」

角アナウンサーが司会するこの番組では一昨日、甲野善紀先生を特集して紹介していた。だから私が「ちちんぷいぷい」というタイトルを見た瞬間に、甲野先生のことを思いだすのは当然の反応である。
私はこのところ武道論を書きながら、甲野先生と自分の武道理解はどの辺で接近して、どのへんが分岐するのだろうということをずっと考えていた。
「甲野先生と私を結びつけるもの」と「甲野先生と私を隔てるもの」を考えてたら、その文字が見えた。
私がこのタイトルから一瞬のうちに読み出して「ぎくり」とした文字列は
「合気会二段」
というアナグラムだった。
「合気会二段」はおそらく甲野先生と私が「ふたりとも一時的に持っていたことのあるもの」である。
甲野先生は二段か三段のころに合気会を離れて、ご自身の松聲館を立てられた。そして、松聲館を固定的な師弟関係を持たない修業のための場とされたのである(その武術稽古研究会も先般解散されたことは記憶に新しい)。
つまり、私と甲野先生の際だった違いは「師弟関係」についての評価において顕著である、ということをこのアナグラムは示唆していたのである(たぶん)。

アナグラムとしてどんな文字列を読み出すかということは、読み手のそのときの無意識的な関心事と深くかかわっている。
アナグラムを読み出すことは「自分の潜在的な関心」を再発見することである。
だから、そこに自分だけにかかわり、自分ひとりにとってしか意味を持たないよう宿命的なメッセージが読みとられることがあったとしても、それは驚くに当たらないのである。