11月24日

2003-11-24 lundi

ひさしぶりの「お休み」なので、家の掃除をして、冬に備えてホットカーペットを敷いて、アイロンかけをしてから、コーヒーを飲みながら原稿書き。
洋泉社の「武道論」を書いているつもりが、「身体と言語」という、ぜんぜん武道とは関係のない話に逸脱してしまった。
発語における身体の「検閲」とはどういうものか、というウチダ的にはたいへんに興味深い考察であるので、ぐいぐい書いているうちに、引用される事例がハイデガーとかレヴィナスとかジャン・ポーランとかモーリス・ブランショとか傾向的なものばかりになってしまった。
「そんな話、うちのムックに載せてどうすんです。『現代思想』じゃないんですから」
という洋泉社の渡邊さんの苦渋のうめきが聞こえてきそうである。
まことにごもっともである。
では、この原稿は1月17日に予定されている京大での研究発表のネタに回す、ということにして・・・
もう一度、最初から30枚書き直しである。
げ、仕事がまたふえちまった。
テーマは「未来の体感をどうやって言語を経由して他者の身体に転写するか?」というわりと実用的なものだったのであるが(どこが?)、「未来の体感」と「言語を経由」と「他者に転写」という三つのネタがどれも簡単には説明がつかない長い話なので、なかなか30枚にはまとまらないのである。
「300枚で書いてくれ」といわれたのであれば、ちょうどよいくらいの大ネタだったんだけどね。
ということは、これで本が一冊、ということか。
あれ?
そんなテーマの本の注文来てないや。
どうして私は注文の来ているものを書かないで、注文の来ないものばかり書くんだろう。

7時まで原稿を書いてから、ひとりで「キャベツともやしと豚肉の鍋」を作って、しみじみ食べる。
おいしい。

食後にAVライブラリーから借りたギャスパー・ノエの『カルネ』(Carne) と『カノン』(Seul contre tous) を見る。
豚肉で満腹状態で見始めるべき映画ではなかったようである。
そ、それにしても、救いのない映画である。
フランスの「レッドネック」というか「プア・ホワイト」というか、要するに La France profonde と呼ばれる社会階層(無知で暴力的で利己的で排外主義的なボンクラたち)の出口のないバカさが活写されている。
歴史が教えるところでは、この階層が19世紀末から大戦間期にかけて、フランスにおける反ユダヤ主義とファシズムの培養基となった。
主人公の肉屋が勤務していた畜殺場、パリ郊外のラ・ヴィレットは、かのモレス侯爵の組織した「世界最初のファシスト武装集団」モレス盟友団 (Mores et ses amis) の根拠地である。
侯爵はここの屠殺人たちに紫色のシャツとソンブレロをかぶせてパリの街路を行進させ、パリのブルジョワたちははそれをこわごわとみつめながら、そこに漂う血と暴力の匂いにひそかに魅了されたのである(モード史の教えるところでは、このシーズンにモレス侯爵が着こなした「ヘビー・デューティなアウトドア志向のサファリ・ジャケット」は「モレス」という名前を冠されて、パリのブルジョワたちにもてはやされたそうである)。
ギャスパー・ノエはおそらくそのような歴史的事実を踏まえて、「ひとはどうやってファシストになるのか?」という古くて新しい政治的主題に挑んでいるようにウチダには思われた。

こうなったら「毒を食らわば皿までも」と、松下正己くんご推奨の『アレックス』(Irreversible) に挑戦。
うーむ。
教訓としてはですね・・・

(1)深夜に地下道を歩くのは止めましょう
(2)鼻っ柱は強いが喧嘩は弱い友だちとアブナイところには行かないほうがいいね
(3)人生の重大な決断は、酒、ドラッグなどを吸飲していないときにしましょう
(4)あまり「セックスの話」ばかりしていると、罰があたりまっせ

というくらいが重要度の順でしょうか。
なに?
ウチダには「アートっつうものが分かってない」と?
「映画は教訓を引き出すために見るもんじゃないぞ」と。
こうおっしゃるか。
いや、もっともですが、この映画を見て、「これからは真夜中にひとりで地下道を歩くのはやめよう」と思ったおかげで遭遇したかもしれないレイプを事前に回避することができた女性が世界に一人でもいれば、この映画は人類に「善きこと」を一つ贈ったとウチダは思うけどね。
アーティスティックでかっこいい映画であることより、そっちの方をウチダは評価する。
物語が人間の愚かさと邪悪さを描くことに少しでも意味があるとすれば、それは「人間の愚かさと邪悪さ」についての知見を広め、それを「どうやって回避するか」についてひとりひとりが真剣に考え始めることにある、とウチダは思う。
それが「物語」の人類学的な意味でもっとも起源的な機能なのではないのだろうか。
という点で、ギャスパー・ノエをウチダは高く評価するのである。
松下くんの評価軸とはぜんぜん違うけどさ。
ギャスパー・ノエくんは、さらに「人間の愚かさと邪悪さ」について深く追求するように。
カンヌでは地下道のレイプ・シーンで続々とジャーナリストが席を立って、抗議の意志を表示したそうであるが、そういう「良識ある」態度はモレス盟友団を見て見ぬふりをした1890年代のパリのブルジョワと変わらないぞ。