ロンドン在住の胡さんという台湾の方からメールがくる。
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』を中国語訳して、台湾で出したいという企画を申し出られたのである。
「どーぞどーぞ」とご返事をする。
前に『ため倫』の韓国語訳を出したいというオッファーが韓国の出版社から来たことがあり、即「オッケー」とご返事したのであるが、その後音沙汰がない。
ウチダはアジア隣邦と仲良くしたいとつねづね願っており、そのためには外交や経済や安全保障のレベルでの「国益」のすりあわせのみならず、「グラスルーツ」における人間的親しみの醸成が不可欠であろうと考えている。
そのためにも、隣国のもの同士で「ふつうの生活感覚にもとづくふつうの意見」を交換しあうのは、建設的なことだろう。
メディアを経由して紹介される「民衆の意見」というのは、ほとんどが報道する側の主観がまじりこんでいる。
そうではない、固有名において発言し、その発言に責任をとることのできる「顔の見える」人間が言葉を交わしあうことが必要だとウチダは思う。
ぜひ、ウチダ本の中国語訳が世に出ますようにと念じる。
大学ではゼミ二つとゼミ面接。
ゼミ面接はすでに40名を面接したのだが、さらに30名も来てしまったので、予定していた面接時間ではとても面接しきれなくなって、急遽「追加公演」を二日増やす。
標準的には一人5分だが、長い人は15分から20分話しこむ。
総文の3年生の学生数は240名だから、4人に1人がウチダゼミの面接に来た勘定である。
学生のリサーチのためには貴重な機会ではあるのだが、それにしても疲れる。
ゼミは浜松の鈴木先生による「義務教育年限の短縮」と「高校以上の複々線化」という大胆なるご提言を拝聴する。
「問題行動を起こす生徒」のケアのために費やされる膨大な時間と税金と教員の心身の疲労、そしてルールを守って受講している他の生徒の学習権をどう保証するのか、ということについて現場の先生から悲痛な訴えを聞く。
問題を起こす生徒は家庭で傷つき、地域で傷つき、学校で傷つき、さまざまなトラウマを抱えた「被害者」なのであるから、これを排除するのではなく、むしろこの子たちの「救済」のために教育的リソースは優先的に投入されなくてはならない、というのが戦後一貫して支持されてきた教育原理である。
しかし、この原理はすでに制度的に支えきれないところまで矛盾を抱え込んでいる。
問題を起こす生徒に配慮するのは、それを放置したり排除したりすることによって将来的に生じる社会的な損害の方が、刻下の教育投資の負荷よりも大である、という判断に基づいてのことである。
問題行動それ自体に意味や価値があるからではない。
しかし、一部の知識人は、問題行動を、教育制度、家庭制度、あるいは父権制社会、資本主義などに対する「批判的な構え」というふうにプラス評価する傾向にある。
こういう「プラス評価」に子どもは大人が考えているよりはるかに敏感である。
子どもは「ペナルティがある」と思う行動は慎重に回避し、「エクスキュースが効く」と思う行動は図に乗ってやる。
そういうなかなかしたたかな生きものなのである。
「親が悪い」「社会が悪い」「学校が悪い」という他罰的な説明に対して、にこやかに耳を傾けてくれて、その告発の理路を支持するような言動をする人間が一定数いれば、子どもは必ずこのチープでシンプルな「物語」にとびつく。
だって、らくちんなんだから。
ここから始まる「チープでシンプルな物語のオーバードーズ」という「病気」は、ひとによっては死ぬまで続く。
すべての人間はなんらかの物語に依存しているから、そのこと自体は責められるべきではない。
しかし、自傷的・自己破壊的な言動を正当化するような「物語のオーバードーズ」はときに致命的な結果を招く。
そのことを危険性をアナウンスする人間があまりに少ない。
ゼミのあと、家にもどって翌日の朝日カルチャーセンターの講演資料をぱたぱたと作る。
お題は「人はなぜ知らないことについて判断できるのか?」
ほんとに、どうしてなんだろう。
それから三宮のリセットで江さんと『ミーツ』の来月号の「仕事特集」の打ち合わせ。
「フリーター」はどういう社会的機能を果たしているのか、彼らはどのような「マップ」を必要としているのか、ということが私に与えられたお題である。
「フリーター問題」については「フリーターが増えて困ったものだ」という沈痛な苦言と「フリーターという生き方はスバラシイ」という脳天気な主張の二つがある。
ごらんの通り、どちらも主観的なバイアスがかかった言明であり、フリーターがどのような歴史的文脈で出現してきて、どのような歴史的役割を担っており、日本の経済システムにどのようにビルトインされており、このあとの社会変動の中でどういう作用を担い、その後どういう地位を占めることになるのか、という「よい悪いは別としたところの、客観的なデータ」を共有するという姿勢がみられない。
やはり話は「客観的情勢分析」から始めないとまずいのではないか、というお話をする。
私はこれまで繰り返し書いている通り、日本のフリーターは世界的にみて最高水準の能力をもつ「低賃金労働者」であり、この200万人が日本経済の下支えをしていると評価している。
時給850円のマクドのバイトのお姉ちゃんが、仕込みから新人教育からデコレーションのプラニングまでこなし、時間外のサービス残業やサービス早出までいとわずにやっているという驚嘆すべき「忠誠心」の高さが、59円のハンバーガーというような商品価格を可能にしているということをメディアはほとんど報道しない。
コンビニで夜勤のお兄ちゃんは、レジの金をかっぱらって逃げることも、ともだちを呼んで、店の商品をぜんぶトラックに積み込んで夜逃げすることも考えないということを想定して採用されている。
そんな「前提」で見ず知らずの人を採用できるほど、就労者のクオリティと忠誠心があらかじめ保証されている社会が世界にいくつあるだろうか。
それを「ありがたいことだ」と思わずに、「フリーターはなくさなければいけない」と行政は主張している。
どうして?
もちろん、そこには理由がある。
それについては再来月の『ミーツ』を読んでね。
さて、今日からいよいよ、「死のロード」である。
まずは葺合高校で高校生相手に「模擬授業」90分。
そのあと朝日カルチャーセンターで講演。
明日は龍谷大学で甲野先生、岩下先生とのシンポジウム(これは気楽)
明後日は銀座資生堂で鈴木晶先生と対談(これはもっと気楽、でも東京まで往復が大変だよん)
さあ、ウチダは生きて土曜日を迎えることができるであろうか。
--------
(2003-11-19 00:00)