公募推薦入試の面接。
今回は前年度比32%増という志願者急増のために、ノンストップ3時間半50名面接というハードワークとなる。
面接試験のときに、うっかり「本学志望の動機は?」とか「高校時代での印象的な出来事は?」というような質問をすると大変なことになる。
たちまち、高校生諸君は『大学案内』のコピーをそのまま暗誦してきたようなストックフレーズを「呪文」のように唱え出すからである。(「高校時代の出来事」で、「文化祭で、さいしょはばらばらだったクラスがやがてまとまり、最後はみんなと力を合わせて一体となったときの感動は忘れられません」というのもこれまで100回くらい聞かされた。たぶん、高校の進路指導室常備の「面接想定問答集」の一番先に出ている例文なのであろう)。
恥ずかしげもなくできあいのストックフレーズを口にしておけば、世の中どうにか渡っていける、というような世間を舐めた態度をウチダは評価することができない。
高校の進路指導の教師も、少しは頭を使って考えて欲しい。
面接官は同じような問答を朝から数十回から繰り返して、すごく「疲れている」人たちなのである。
志願者との口頭試問を通じて、「心が和らぐ」とか「疲れたが癒される」とか「破顔一笑する」いうことをこそ切望しているのである。
そのような疲れ切った面接官に向かって、木で鼻をくくったような応接をすれば、面接官の「むかつき」度というものが一気に上昇する、ということがなぜ分からないのか。
私はそのストックフレーズの「コンテンツ」に文句を申し上げているのではない。
みなさんが、文化祭でのクラスの団結に感動したのも本当なのだろうし、本学の伝統ある校舎と緑の多いキャンパスに惹かれたのも真実なのであろう。
しかし、問題はそれが「伝わる言葉」で語られているかどうか、ということである。
ちょっと違う話をしよう。
私のいる研究棟から文学館へのゆるいスロープを上ってゆくと、ときどき右手の中高部の校舎から「ねえ、おねがい」「何を言ってるのよ」「だからさっきから言ってるじゃない」「だめよ、あなた、何もわかっちゃいないんだから」というような対話が聞こえてくる。
おお、中高の生徒諸君もなかなか元気にコミュニケーションを展開しているな・・・というふうに私は決して思わない。
だって、それは演劇部のお稽古なんだから。
校舎の中はスロープからは見えないし、そこでやりとりされている言葉は、ふつうの生徒諸君が日常やりとりしている種類のものである。
にもかかわらず、それが生徒諸君の「素の」対話であるのか、お芝居のお稽古であるのかは一秒で分かる。
日常の言葉と発声法が違うからである。音の響きが違うからである。
そこにはぜんぜんリアリティがない。
頭の中にあらかじめできあがって保存してあるストックフレーズを、きっかけが来ると「印字」して出しているときの人間の言葉は「すっきりしすぎている」せいで、「それ」と分かってしまう。
そこにはふだんしゃべるときのような「ためらい」も「前のめり」も「気まずい間」も「嘘くさいことを言うときだけ早口になる」ことも、そういう微細なトーンやピッチの変化がまったくぬぐい去られて、まるっと平板に流れてゆく。
そういう平板な口調は、言葉が「身体のフィルターを通過していない」ということをあらわにしてしまう。
言葉は身体というフィルターを通過すると、深みと陰影と立体感を帯びる。
それは身体が言葉に「抵抗する」からだ。
頭の中で「次のせりふ」を決めておいたのに、口がうまく動かない、ということはしばしばある。
それはそれがどこか「嘘くさい」と自分で思っている場合もあるし、そのフレーズに含まれる言葉のどれかに軽い「トラウマ」がある場合もあるし、単純に口腔の構造がその物理的音声を発生しにくいという場合もある。
言葉は身体というフィルターを通過させると独特の響きを獲得する、ということを知悉していた作家に太宰治がいる。
太宰の最晩年のエッセイ『如是我聞 四』は新潮社の編集者を深夜電報で呼びだして口述筆記させたものである。
太宰は編集者の前でコタツに入って、酒杯を含んだまま、「蚕が糸を吐く」ように、よどみなく最後まで口述したという。
ところが98年にこの口述筆記された『如是我聞 四』の「草稿」が発見された。
それは発表原稿とほとんど一言一句変わらなかった。
つまり、太宰はまず草稿を書き、それを暗記し、それを聴き手の前で暗誦してみせたのである。
どうして草稿があるのに、太宰はそれを渡さず、あえて口述筆記をさせたのか。
どうして、そんな手間暇をかけたのか?
おそらく太宰は「言葉は身体を通過することでしかある種の説得力を獲得できない」ということを知っていたのである。
言葉に対する「身体的検閲」とでもいうべきものが存在する。
それは、「嘘くさいことば」に「これは『嘘くさいことば』です」という刻印を押してしまうのである。
それはある種の「平板さ」、ある種の「無徴候性」という刻印である。
理路が整合的であり、文飾が華麗であるにもかかわらず、「読み飛ばしたくなる文章」というものがある。
あまりにもすべすべとなめらかであるせいで、読者はそこに足をとどめておくことができない。
身体は、「なめらかすぎる言葉」には「無徴候性」という負の刻印を押すことで、それを「読ませない」という仕方での復讐を果たすのである。
太宰は自分の文章を一言一句「とばし読み」させないために、あえて身体的検閲を自分に課した、と私は想像している。
すべての語から「無徴候的なめらかさ」を削ぎ落とし、ひとつひとつの語に凹凸や肌理や温度差リアリティを与えて、そうやって言葉が帯びた「ひっかかり」や「ねばつき」によって、言葉が深く強く長く読者の身体に「食い込む」ことを太宰は望んだのである。
それはボールにつばをはきかけて予測不能の回転を与えようとするスピットボールの禁じ手に少し似ている。
私は別に面接試験の志願者に太宰治のような言語能力を求めているわけではない。
そうではなくて、人と人がであうときに優先的に配慮されるべきなのは、言葉の「コンテンツ」ではなく、言葉を差し出す「マナー」だ、ということである。
太宰の文学がその現時性を失いながらもなお今日に読み継がれるのは、彼が自分の言葉が「深く強く長く読者の身体に食い込むことを望んだ」からである。
それと同じように、まとまりのある、つじつまのあったことをしゃべるのが勧奨されるのは、その方がそうでない場合より相手に届く確率が高いからである。
ことの順逆を間違えてはいけない。
よりたいせつなのは「言葉が届く」ということであり、「つじつまのあったことをしゃべる」ことではない。
今日の初等中等教育では「自分の意見をはっきり口にする」ということは推奨されているし、技術的な訓練もなされているようだけれど、残念ながら、「自分の意見」は「はっきりしているだけでは、聴き手に届かない」というもっとたいせつなことは教えられていないようである。
おとぼけ映画批評更新!
見てきたぜ『キル・ビル』
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(2003-11-15 00:00)