学士会館がいっぱいだったので、御茶ノ水の東京ガーデンパレスに投宿。
ひさしぶりに御茶ノ水駅を降りて聖橋をわたる。
御茶ノ水は懐かしい場所である。
1967年の夏休みに私は御茶ノ水駅前の「純喫茶・田園」の3階の「同伴喫茶」(もう死語だな、これも)でボーイのバイトをしていた。
最近の若い方はご存じないだろうが、同伴喫茶というのは、新幹線の車内のように二人がけの席が一方向にむいて、ずらっと並んでおり、室内照明はあくまで暗く、前後左右でどのようなことがなされているのかが伺いしれないようにしつらえてあるのである。
私は別に同伴喫茶のボーイを志望したわけではなく、はじめはふつうの一般席でコーヒーなんか運んでいたのであるが、わりと段取りのよい子どもだったので、この「アブナイ空間」にコンバートされたのである。お客さんにしても、あぶらっこい中年男よりは、無邪気な(どこが?)子どもがトレイを持ってくるくる走り回っている方が気が散らないであろうというご配慮だったのではないかと推察される。
そこで二月ほどバイトをして、ちょっとげんなりした頃、お向かいのジャズ喫茶ニューポートで「カウンター募集」をしていたので、そちらに転職した。
もちろんカウンターの経験なんかまるでなかったのであるが、「経験あります」と嘘をこいて(当時からそういうやつだったのだ)採用された。
最初の日にマスターに「レモン切ってごらん」と言われてレモン一個とナイフを渡されたので、ずばずばとスライスしたら、「あのね、レモンは22枚に切るんだよ」と教えてもらった。
「君、経験ないんでしょ?」と言われたが「へへへ」と最高にフレンドリーな笑顔でごまかしたら(当時からそういうやつだったのだ)、マスターもにやにや笑って、それで済んだ。
そのあとも「ウイスキーの水割り作って」と言われて、適当にウイスキーと水をまぜて出したら、常連のお客さんが一口飲んでしみじみと「あのさ、俺、水っぽいウイスキーって飲んだことあるけど、ウイスキーっぽい水って飲むのはじめでだわ」と苦笑されたことがある。
でも寛大で寡黙なマスターはカウンターのはしっこでいつもにこにことパイプをくゆらすだけで、私はそこで三月ほど働かせてもらった。
私が「大人の男」の最大の美質は「こまかいことにがたがた言わずに、子どもをほったらかしにしてくれること」だということを学んだ最初の経験は、このニューポートのマスターからだったと思う(るんちゃんは生まれてはじめてのバイトとして、高円寺の無力無善寺というライブハウスで「こまかいことにがたがたいわない」マスターの下で一日中ロックを聴きながら慣れぬ手つきでカクテルなんか作っていたらしいが、親子揃ってやることがやっぱ似てるわ)。
1967年の秋から冬にかけて、私はここで毎日10時間くらいオーネット・コールマンやチャールス・ロイドやセシル・テイラーやチャーリー・ミンガスやソニー・ロリンズやマイルス・デヴィスを聴いて過ごした。
御茶ノ水「カルチェ・ラタン」は革命前夜の熱気を帯びており、ジャズは熱く、音がひとつひとつ「びしびし身体にしみこむような」(@村上春樹)時代であり、高校をやめてなんだか無限の未来を手に入れたような気分になっていた17歳の少年にとっては一日一日がはじけるように新鮮だった。
そのあと、1969年から70年までは御茶ノ水の駿台予備校に通っていた。
1971年の夏から翌年にかけては神田明神前の「小口のかっちゃん」の家にフジタくんやイタガキくんといっしょに暮らしていた。
そのあと、自由が丘の方に移ったあとも、73年から75年までは聖橋のバス停から東大病院行きのバスで大学まで通っていた。
というわけで、御茶ノ水は私にとって、たいへんにたいへんに懐かしい場所なのである。
その聖橋をわたって、神田明神に向かい、「かっちゃんの家」にゆく信号を左折して、東京ガーデンパレスに着く。
シャワーを浴びてから駅前にご飯を食べに行く。
「中国飯店」がまだ営業していたので、もやしそばとビールを頼む。
この中国飯店では今は亡き新井啓右くんともやしそばを食べたことがある。日比谷の先輩だった小西茂太くんにここでタンメンをおごってもらったこともあった。
30年経っても味は変わらない。
ちょっとセンチメンタルな気分になったので、ニューポートを探してみたが、もちろんもう存在しない。純喫茶田園もないし、埴谷雄高や吉本隆明の本を買った茗渓堂書店もない。
ホテルに帰って、ぱたりと寝る。
9日の朝は共同通信の取材。
甲野善紀先生の武術が今このように脚光を浴びたに至る歴史的文脈についての「解説」を求められる。
私は別に甲野先生から「スポークスマン」にご指名頂いたわけではないし、適任の方は他にいくらもおられるだろうが、取材に来てしまったものは仕方がない。
とりあえず甲野先生の立ち位置がこれまでの近代武道の歴史の中でどのようにオリジナルなものであるかについて、できる限りの説明を試みる。
取材の記者の方は「なるほど!」とえらく納得されていたが、私なんかが解説しちゃって大丈夫なのかしら。
甲野先生、間違っていたら、ごめんなさい!
取材を終えて、タクシーで本郷三丁目の医学書院へ。
鳥居くんがもう来ている。
鳥居くんは医学書院の新進エディターなのであるが、月窓寺道場に入門した私の弟弟子にあたるのでもはや身内である。
ふたりで「ツッチー」についての内輪の話題などで盛り上がっているうちに三砂先生が着物で登場。
三砂先生はこのところもうどこにゆくのも着物で、もちろんお勤めも着物。オフィスに二畳の畳をひいて、その上に「ちゃぶ台」をセットしてお仕事をしているそうである。
三砂先生って、過激。
そこに今回の主催者である『助産雑誌』の竹内さん入戸野さん、白石さん、晶文社の安藤さん、足立さんら一騎当千の辣腕エディター軍団、そしてスペシャル・オーディエンスのフジイ「永世芸術監督」も登場して、さっそく「お産トーク」開始。
のはずが、とりあえず着物の話と「宝塚」の話で盛り上がって、なかなかお産に話がゆきつかない。
でも三砂先生の話は、どんな話題でも、とにかくわくわくするほど面白いので、ゆきあたりばったりにおしゃべりを続ける。
私は人間の批評性を判断するときに、その人が自分の職業をどのように適切に「歴史的文脈」の中に位置づけることができるかを、ひとつの指標に採用している。
その上で申し上げるのだが、三砂先生ほど自分がしている仕事の「歴史的な意味、その可能性と限界」についてクリアーカットな言葉で語る人をこれまで会ったことがない(「疫学」というものについて私はほとんど何も知らなかったが、三砂先生に説明してもらったら、なんだかすべて分かったような気になったくらいである)。
勘違いしているひとが多いけれど、「自分のしている仕事はスバラシイ」と信じ込んでいる人間は、自分のしている仕事がどういうものであるかを適切に語ることができない。
もちろん、「自分のしている仕事はクダラナイ」と思っている人間はさらにできない。
自分のしている仕事には「可能性と限界」が同時にあり、それが「何か」をきちんと言葉にできる人だけが、その仕事から最大限の快楽と成果を同時に引き出すことができる人である。
その意味で、三砂先生はまことに希有の「プロの学者」であった。
白石さんのお骨折りで、このようなみごとな方と出会わせていただけたことはまことに幸運なことである。
三砂先生との対談は、一部が『助産雑誌』に掲載され、一部は医学書院から出るウチダの「ケア本」に採録される予定である。
晶文社も私と三砂先生の「対談本」というものを企画しているようであるが、これはもう私のほうからお願いしたいような仕事である。
漏れ聞くところでは、池上六朗先生と三砂先生の「遭遇イベント」の企画もひそかに進行中であるらしい。
実現するなら、ぜひウチダもその歴史的な遭遇の瞬間に立ち会わせて頂きたいものである。
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(2003-11-09 00:00)